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銀行に支払いに行ったでかけに見た、神奈川東部方面線(JR、東京急行、相模鉄道の直通新線)の新横浜駅建設現場の、今日の様子です。
 この写真では以前と何も変わっていないのですが、別の場所でコンクリートポンプ車が稼働し続けていました。さすがにもう基礎は終わっているでしょうから、駅施設の側壁か、ホームなどへのコンクリート打ちが行わているのでしょう。最近は、こういう現場取材のお声掛けがないのがつまらないなあ。メディアが、何かとコストダウンばかりしたがって、自分の足で確かめようという姿勢を忘れちゃっているのだもの。
 グチはともかく、この路線が開通すれば、我が家から自転車で駅に着き、そこから乗り換えなしに都心に着くことができるようになります。家から至近の鉄道がすごく便利になる。あと10歳くらい若ければなあ…。あ、これもグチか。
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ツイッタ―にも記した「しまむら」の特売に行って参りました。
 「これからはユニクロじゃない、しまむらだ」と言った友人がおるのですが、何と言うか、仮にユニクロが麻布のカフェであるとするならば、しまむらは武蔵小山のお蕎麦屋さんという居心地の違いがあります。はは、歳を取ったということでありましょう。でも、同じビルに入っているアパレルのお店がガラガラだったのに、しまむらは賑わっておりました。
 特売日ゆえ「値下げ 300円」なんてジャケットもありましたし(自分には小さいだろうけれど一瞬欲しくなったぞ)、「半額 2450円」のジャケットにも惹かれたのですが、こらえました。
 「さあ、袋を開けて新しい服を着よう」というワクワク感は、あまりないのですが、そこがお蕎麦屋さんのお蕎麦やさんたる所以でありましょうが。

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 毎号編集のお手伝いをさせて頂いている日本写真家協会(JPS)の会報166号が発行され、PDFもアップされました(該当ページからPDFを閲覧できます)。
 本号では巻頭ページで、松本副会長が「権利無視の応募要項!!フォトコンテストのいまを考える」と題し、最近実施された東京都交通局によるフォトコンテストのやり方を例にして疑問を呈しています。
 記事の書き方の詳細、言葉の選び方については私にも異論がありますが、『一度応募したのなら、著作権を含めるすべての権利が主催者(この場合は東京都交通局)に帰属し、けれどもクレーム等については応募者が責任を持て、という姿勢は、とてもコンテストを主催する者にふさわしいものとは言えない』という記事の趣旨には、全面的に賛同します。
 とにかく、現代という時代は、このような無神経、横暴がまかり通ってしまう時代です。私たちは、目の前にぶら下げられたニンジンに安易に飛びつくことをせず、きちんと目を光らせ、社会のルールを構築していかなければなりません。
 硬い記事の多い会報ですが(そういう書籍だって必要です)、写真に興味のある方は、ざっとでも目を通してみて下さい。得るところがあるかと思います。

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 突然ギャラが入ったので(フリーランサーの醍醐味です)、いつもと違うことにお金を使おうと思い、渋谷のロフトで「ワナドウ手帳」の「鉄道」を買ってみました。
 この手帳のメインコンテンツになっているのは、裏表紙(下の写真)に出ている「ログページ」。旅の記録をメモして、写真を貼り、乗車区間を記載してゆくというもの。他に、保存車両のリストや、鉄道地図などが載っています。
 たわいないと言えばたわいないかもしれないけれど、でも夢がある。文房具などの知的アイテムは、この「夢を紡がせる」部分が凄く大切なのだと思う。いや、それは文房具だけに限ったことではない。ソフトはみなそうだし、鉄道だってそうだ。ただコストダウンを繰り返すことが、その世界をいかに不毛なものにしてしまったかは、誰もがよく知っている。
 夢を作らなきゃ。次は「グルメ」や「温泉」といった手帳も買ってみようかな。

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昨日は新宿のクラブ―ツーリズムで、この秋2回めの講師役を務めました。
 持ち時間が終わると質問を受け付ける時間があって、これはまあ、余韻を楽しむようなものです。昨日は3人の方から質問があったけれど、みな紳士的で、答える方も楽しい時間となりました。書いた記事が発表されると、読者からの突っ込みに怯え続けなければならないのが、現在のライター事情なのだけれど、こうやって面と向かって話す分には、1対1の節度ある話し合いができる。苦情の電話とか、ネット上での批判とか…。そんな匿名の発言を認めてしまった状況も、社会をいびつで息苦しいものとしてしまった一因なんだろうなあ、と、これは愚痴に近い呟きです。

Facebookの友人が、こんな記事があることを教えてくれました。

つくばエクスプレスで「トラブル・不祥事多発」一体なぜ⁉

 つくばエクスプレスの現状に触れ、事故が起こる可能性があるという指摘です。
結論は間違ってはいません。小さなトラブルが起こっており、将来的に大事故が起こる可能性もあるというものです。
ただ、この結論は、すべての鉄道会社について言えることであり、さらに言えば、航空会社や、バス会社や、タクシー会社についても言えることです。
 記事を読んだ感想は、「それではこの記者は、他の鉄道も取材して、その上でつくばエクスプレスを危険である」と思ったのだろうか?ということです。例えば、最近になって遅延が多く発生していると言われるJRの中央線や、東急田園都市線であるとか、限られた予算の中で文字通り苦闘を続けている銚子電気鉄道などの現場を知り、さまざまな比較を行った上でつくばエクスプレスを取り上げているのか?ということです。
 まず、そのようなことはしていないと思います。たまたま、この記者さんか、編集担当者がつくばエクスプレスを利用していて、テーマに採りあげようと感じたのでしょう。
 記事中には、「利用者が増えたのに職員は数名しか増えていない」であるとか、「ドアセンサー」の問題が挙げられていますが、将来の利用者増は、この鉄道が開業した時から見込まれていたことで、そうなっても対応ができるように、自動化であるとか、バリアフリー化が当初から進められたいたわけです。開業後のつくばエクスプレスにインタビューに行った際に、担当の方は、「当社にはバリアフリーの推進という考え方はありません。なぜならそれは、最初から当たり前のこととと考えているからです」という旨のことを仰っていたことも印象的でした。最初からシステムが整備されていたから、利用客増にも対応できているわけです。
 ドアセンサーの問題は、私は東京急行の方にお話を伺ったことがあります。同社は近年になって遅延が多くなっており、批判の対象となっているようなのですが、それはドアセンサーの作動が一因であり、特に皆が厚着になる冬場が問題なのだとのことでした。そういう比較がなされているなら、「つくばエクスプレスは危ない」という書き方はできないはずです。

 誰のために記事を書くのか。もちろん、利用者のためであるはずですが、それであれば、潜んでいる危険を不正確に指摘してはならない。それは当たり前のことで、結局は、何でもよいから煽りたいという根底の部分が見え隠れするのが、どうにも切ない限りです。聞いた話では、ネット上にニュース記事をアップしているところは、いつもアクセス数を稼ぐことに必死になっているのだとか。媒体が注目されなければ死活問題となるのは書籍でも同様ですが、どうもネット媒体は、その傾向が強すぎ、行動が短絡的に過ぎるように感じらるのですが、どのようなものでしょう?

 自戒も含めて。

念のための追記:現代の駅は自動改札機や監視カメラ、ホームドアなどの普及によって、可能な限りの省力化が進められているのは、皆、ご存知の通りです。そのことによる弊害も認められ(例えば弱者に対する人による案内が少なくなってしまう可能性がある)ますが、それは鉄道会社にとっての共通のテーマでもあります。もし、4名の増員だけでは不十分であるとするのなら、対案を書き、その根拠も記して、初めてその意見は説得力のあるものとなります。根拠なしに数字を持ちだし、利益優先などと記してみても、それが単なる八つ当たりとしか捉えられなかったとしても、仕方ないのかなと感じます。




ここのところ、すっかりブログにご無沙汰してしまっているもので(すみません)、何か書かないと。

 何も書く気が起きないというのは、物を書いている人は皆そうだと思うのですが、忙しい時ではなく、ただひたすら落ち込んでいる時、鬱な時です。もちろん、人間である以上、そのような時は必ず誰にでもあるはずで、そういう時期を短く浅くできる人が、優秀な人間であることの、一つの指標なのかもしれませんが。
 
 最近、そうですね、ここ半年か1年くらいの間のことですが、個人的な変化としては、食が細くなったことが挙げられます。年齢的にも還暦を過ぎ、それは当然のことなのですが、嬉しさも中くらいということでしょうか。昔は簡単に食べられた「○〇と○〇のセット」のような昼食が、平らげるのに苦痛を伴うようになりました。それはたくさん食べなくても済むということで、選択メニューのバリエーションを広げる効果もありはするのですが、やっぱり、つまらないということもある。従って、中くらいということです。

 食が細くなったことを随筆に書いていたのが晩年の池波正太郎で、この人も健啖家でしたから、最晩年の「そんなに食べたら私は死んでしまう」という記事には、読み手としてはがっかりしたのを覚えています。それは書き手としては、ごく自然な心情だったのでしょうが、読み手は、そこには期待ていない。つまり、受けるためには、多少の「外面」もあった方が良いということになるのでしょうか。

 書くことの難しさは、そのようなところにあります。「書き手」としては、これは何も随筆に限らず、評論であるとか、あるいは小説のようなものまで含めて、その時の自分の価値観に司られて言葉を拾いだしてゆくわけですが、その無意識の行為は刻々と変化し続けているわけです。「食が細くなった」というのは、明白に理解できるわけですが、同様の変化は精神面にもあるはずで、そのことによって書くことまで細くなってしまってはいけない。内面的には、そうなっているのでしょうが。

 で、昨今の鉄道のニュースを見ていると、何やら暗いことばかりで、これはマスコミの諸氏が、とにかく「煽ること」ばかりを念頭にして記事を書いていることが生み出している大きな過ちとも捉えてはいるのですが、さてそのようなご時世の中で、自分が書くことをいかににして「細いものにしてしまわないようにするか」が、とても大きな課題であると、そのあたりもなんだか難しい問題だと、私の落ち込みの一つの理由になっているように感じではいます。

 自分が落ち込んでいても、書くものは面白いものにしないと、なのであります。
 やり甲斐はありますが、ひえ~。