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1973(昭和48)年8月の九州旅行では、少なくとも2回は筑豊の「迷路」にさまよいこんでいますし、吉松にも2度行っています。
その間に、友人と一緒に悩んだのが、室木線と高森線のどちらに行くか?ということでした。日程の関係だったのかどうか、解らないのですが、どちらかにしか行けない。室木線には8620形蒸気機関車がいて、高森線にはC12形がいる。その二者択一だったわけです。結論は、高森線でした。それが何故かはもう解りませんが、例によって急行を乗り継ぎ、鹿児島本線を南下します。熊本から豊肥本線に乗り換え、立野駅前の食堂で昼食に「かしわうどん」を食べたことを、これは今、思い出しました。「かしわ」とは鶏肉です。これは知っていました。昼ご飯を食べたのですから、お昼の12時過ぎに着いたのかと思います。そして、これも今、1972(昭和47)年3月の時刻表で見ると、高森線の客車列車が立野駅にやって来るのが14時頃です。

この時は、珍しく駅間で撮影をしました。有名な第一白川鉄橋ですが、駅から歩いて20分くらいの距離でしょうか。それから2時間近く、線路を見下ろす道路上で、ぼーっと時が過ぎるのを待った記憶があります。その後、写真を撮るようになって、つまり、鉄道だけが被写体ではなく、仕事としても写真を撮るようになって、カメラを構えてから2時間や3時間はそこから動かないということを時々やるようになったのですが、そんな時間待ちをしたのは、この高森線での撮影が初めてのことでしたから、やはり記憶に残る出来事となりました。

撮影ポイント、今日で言うところの「お立ち台」には10人くらいの人が集まっていたでしょうか。その人たちの真似をして、カメラに白いタオルをかけて、列車が来るのを待ちました。今なら、まあ、それほど人がいるわけでもありませんから、列車が来る直前まで、どこかで涼むようなことをするかもしれません。でも、この時は、こうやって待つことが正しい撮影法なのだ、なんて、少し背伸びもしていたのでしょうね。

列車の撮影はできました。C12形が引く客車列車です。後からネガを見ると、三脚を使っているのに、ずいぶんとシャープネスのない写真になっていて、あまりに長く待つ間にレンズの距離環を誤操作してしまったのかもしれません。これも今だったら…というところですが、とにかく、列車を待つ間、暑かった。この時の思い出はそればかりです。哲学的な収穫はゼロ。だからこそ、記憶に残っているのかもしれませんが。
(つづく)

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土曜日の都心のオフィスビルはがらんとしていて、レストランフロアにあるお店でさえ、一部が閉まっている。私のサラリーマン時代も、会社は有楽町のビルにあったから、土曜日ともなると、ビル全体ががらんとしてしまい、そんなところで働いている自分が惨めに感じられたものだった。まあ、今は違う。自分だけ「働けて」いることが、むしろ誇りに感じられる。歳を取ったんだなあ。

いきなり話がそれてしまったけれど、ここは汐留のオフィスビルの2階にあるお店です。がらんとしたフロアの中で、1~2軒だけお店が開いていて、本当は別のお店に入るつもりで2階まで上がったのだけど、そちらは閉まっていた。で、ま、ここでもいいかと入ったカレー屋さん。

このお店もチェーン店らしいけれど、でもこのカレーのアイディアは楽しかった。写真はベーコンエッグと野菜のカレーで、細かく切った具がたっぷり。カレーソースはさらさらで、味はシンプル。それでもひと口ごとに、ベーコンや卵やキャベツを味わえるのが楽しい。カレーソースの絡んだ野菜炒めみたいな感じ。

こんなアイディアもあるのね、と思っていたら、隣のテーブルのカレーは、ソースがずっと赤くて、あれも美味しそうだった。また、来なきゃ。でも平日はサラリーマンの行列だろうなあ、また土曜日に来なきゃ。なんて思いながら店を出て、エスカレーターを乗り継いで、遠い遠い地下鉄の駅に戻ったのでありました。

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前回、上りの「みやざき」に乗って、と書きましたけれど、このときに乗った列車は上りの「かいもん」だったかもしれません。次の日は筑豊地区に行くことを決めていましたから、それであれば、わざわざ門司を廻るよりも、最初から中間に向かい、そこから直方に向かった方が有利だからです。
もっとも、これも、もうどうでも良い話です。どちらにしても「かいもん」と「みやざき」は、この旅行での私たちの宿代わりとなっていました。ひたすら夜行連泊で宿代を浮かすわけですね。

実はこの友人とは、大学の4年の時、ですから九州旅行から6年後のこととなるのですが、また一緒に北海道に行っています。そのときは、私が学生であるにもかかわらず、車を持たせてもらっていましたから、それを使って、新潟からフェリーで小樽に回り、時にはテントで、時にはビジネスホテルで、といろいろな泊まり方をしていますから、北海道旅行の頃には、ビジネスホテルを利用することが、当たり前の選択肢になってきているのですね。北海道に行ったのは1979(昭和54)年のことです。

さて、「かいもん」だか、「みやざき」で向かった筑豊でも、結局は直方と、後藤寺、伊田あたりのホームの端ばかりいた記憶があります。直方が多かったかな。けれども、例によって駅間での撮影などせず、筑豊電鉄にも行っていません。どこかのタイミングで、「観光旅行」と称して、小倉の城址に登り、西鉄の北九州市内線を少し見学しています。
けれども、やはり、あまり熱心でない。やっぱり、門司港駅舎に特別の意識を持たなかったように、路面電車についても、危機感のようなものを抱いていなかったのでしょう。
今から考えれば、惜しいことだらけです。今の知識があれば、筑豊電鉄だけでない、廻ってみたいところが、それこそ無数に見つかる。

それでもまあ、何もかもを追いかけなかったからこそ、あれだけ伸びやかな旅ができたことは間違いがなさそうです。
(つづく)

本日は取材で伊豆へ。午後スタートで時間に余裕があったので、行きは快速「アクティ」で熱海まで。
車内で、向かいの席に座った女の子。友達に向かって、「ねぶかわの次の駅で降りるよ〜。しんとりっていう駅だよ〜」

…それ、全然、ちゃう。

で、彼女たち湯河原駅で降りました。
…真鶴でもなく…

 吉松駅に行った後は、恐らく吉都線で都城に出て、宮崎か、あるいは西鹿児島から急行「みやざき」門司港行きに乗っているはずです。これで夜行列車3連泊で、その次の日には佐賀にある母の実家にお世話になるのですが、私たち2人を出迎えた祖母が、私たち2人の「汚れっぷり」を見て呆れたのを覚えています。
「みやざき」も客車列車です。まだこの昭和48年当時は、本当に各地に、客車列車と夜行列車が残っていたのですね。それはもちろん、鉄道が近代的な姿に変わってゆく一過程の情景に過ぎないのですが、車両にバラエティがあって、特急に乗らずとも旅ができたこの時代も、本当に楽しい時代でした。特急でも京都~博多間が所要10時間というのも、何だか信じられない気持ちですが、それでも旅とはそういうものであって、それだけ時間のかかる遠い所だから、北海道でさえ、九州でさえ、私たちはあれほどに憧れたのでしょう。日本のどこでも飛行機で行ける今の時代の若い人には、この感覚は分からないし、どちらが良いということでもありません。

「みやざき」での門司着は6時07分。毎日、眠かったろうなあ。それにすべて非冷房車です。これもまたそういう時代だったからということですが、よく体が持ったものです。
「みやざき」を降りてからは、恐らく門司から中間経由で、直方に向かっていたはずです。
(つづく)

先にも書きましたけれど、このときの九州旅行で、南九州で廻ったのは、南宮崎と、吉松・人吉だけでした。当時はまだC60形、C61形という大型蒸気機関車がいましたし、日南線、志布志線あたりにC11形がいたはず。でも、このときは、そういうものを必死に追いかけてはいませんでした。結構、無頓着だったし、情報を集めるお金もなかったし、それよりも、目をつり上げていなかった一番の理由は、もうそこに行ければ満足という気持ちになっていたのだと思います。

記憶は飛んでいますが、朝の大淀川での撮影をすませて、そこから吉松に行ったということにしましょう。と言っても、ずーっと吉松駅のホームの端で、構内で動いている機関車を見て、写真に撮っていただけです。でもでも、本当に、それだけで嬉しいわけです。
昼食には、駅前の「安田食堂」に入りました。いわゆる大衆食堂で、あの頃は駅前には必ずそんなお店がありました。しかも、吉松駅前には、安田食堂の隣には「源平食堂」というのがありましたから2軒です。店の中のテレビでは、再放送で、森田健作さんが剣道をやっていました。番組の名前は、なんかこの辺、み~んな似た名前になっていたので不明。
食事を終え外に出ると、友人から「この店にはまた来よう」と言われたので、量があったのでしょうね。「よ~し」と返事しましたけれど。で、また薄暗くなるまで、ホームの端です。

実は吉松には、今から数年前に仕事で2回行きました。その1回目の時は、さすがに感慨深かった。40年ぶりくらいかな、って。駅前に出てみましたけれど、安田食堂も源平食堂もなく、そこには電器屋さんが建っていました。




ちょいといい感じでしょ?カレー。500いくらだったかな?600円でお釣りが来ました。
なんだかイワクあり気な店の名前ですが、ガード下の居酒屋さんのランチです。先客がみな、昼からチューハイかよーってビビったのですが、つまりお水を大きなグラスで出していたのね。きょうは暑かったので嬉しかったです。あれでチューハイ飲んだら、歩けませんぜ、きっと。
ガード下の、名前は凄いが造りは屋台、みたいなお店で、お姉さんが、ちょこまかちょこまか動いている昼の居酒屋。入って良かったなと思いました。また、行くの、遠いけれど。

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本日(24日)は日本写真家協会のオフィスで編集作業でした。この仕事は、もちろん、ほぼほぼボランティアなのですが、でも、勉強にはなると感じています。
作業中にフェイスブックの友人であり、写真の仕事では先輩である方から「九州にいつ行ったの?」と質問が。
「ああ。あれは私が高校時代の話です」
「なんだあ。俺、門司港の博物館に行ったことがあるよ。レンガの建物の」
「あれは建物自身が文化財なんです。明治時代に九州に鉄道を敷いた私鉄の本社だった建物」
「ふーん」
なんて会話があったわけですが、ここの副館長さんが大変な趣味者であり、鉄道に対する定見をお持ちであると、これは鉄道が好きな人には、つとに有名。今日の、写真の先輩との会話ではそこまで説明できませんでしたが、写真の建物がそれ。九州鉄道記念館です。
なにしろ、ここの保存車両はピカピカに磨きあげられている。副館長さんに伺った話では、毎日、2時間かけ、昔は藁で磨いたけれども、今は入手が難しいので、柔らかい金属たわしを使っているのだと。印象的だったお言葉が
「砲金製のナンバープレートの色は金色ではない。磨いてゆくと白金のような色になる」
というのと、
「よくお客さんから『きれいですね。この車は本当は動くんでしょ?』と聞かれます。そこで『はい。動きます。夜の間は自由に走りに行って、でも朝になると、元の場所に帰ってきています』と答えています」
というもの。いえ、他にも素晴らしい言葉は幾つも教えて頂いているのですが、とにかく、この記念館に行くと、車両がきれいであることを、それが自分の手柄であるような気持ちになれます。
本当に、出会いというのは、財産、宝物ですね。

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お昼過ぎから雨が降り始めました。2~3日前に、関東も梅雨明け宣言が出たようですが、本当はまだ明けていない気がします。風が冷たいし、セミもほとんど啼いていません。
梅雨明けという言葉には開放感があって、きっと誰もが望んでいるものだから、気象庁としても出したいのが人情なのかもしれません。あんまり出さないでいると、どこからかクレームが来たりして。「こっちは生活がかかってるんだ」なんてね。
個人的には、梅雨はきらいじゃないんです。雨の風景もきれいだと、歳を取るごとに思えるようになって来ました。
(気をつけて下さいね。この「歳を取ると」というのは、おまいら解らんだろーという隠れミノですからね)



夜行急行「かいもん」に乗って、次の朝どこに行ったのか?何故だろう、ここから急に記憶が曖昧になってしまっています。
恐らくは南宮崎に、「大淀川を渡る蒸機列車」の撮影に行っている。あるいはもしかしたら、吉松に駅での撮影に行っている。南九州で記憶に残っているのはそれだけで、吉松にはこの旅行中に2回行き、そのうち1回は吉松~人吉を往復しています。それは間違いなく、覚えているのですが、あとの記憶はまるで飛んでしまっています。

まず、南宮崎に行ったということにしておきましょう。朝の撮影でした。朝日の中を、蒸気機関車が引く列車が、次々にやって来る。まあ、どれもC57ばかりでしたけれど、でも幸せなことですよね、これ。橋の上で撮影をしていると、交通のお巡りさんがやってきて、道ばたに座りこんだ。いわゆる「ネズミ取り」のレーダーです。「君たち、どこから来たの?横浜かあ。いいなあ」と、それだけ話かけてもらったのを覚えています。いま、その人は80歳くらいかな。早いものですけれど。

こんな会話があったことも、今、ようやく思い出したのですが、そういう会話ひとつ、ひとつが、あの頃の私たちには粮になっていたのですね。そうやって、子供が大人になってゆく。大人も子供の面倒を、それとなく見ていたわけです。

そこで自分自身のことを振り返ると、ということになって、また頭が混沌としてしまうのですが、それはともかく。楽しいひとときでした。やがて暑くなり、南宮崎の日本食堂で、かき氷。
そう、この時代には、大きな駅にはたいがい改札のそばに日本食堂という、つまり列車食堂の一元的な経営をしている会社が、駅構内にも店を出していたのですね。当時から、このお店の味については、あまり褒められることは少なかったような気がしますが…、でも確かに便利ではありました。今日であれば、ファミレスであるとか、コンビニがこの役割を果たしているということになりますが、あの日本食堂の、平凡さも、なんだか今はとても懐かしい気がします。
(つづく)