10月の3連休は箱根で過ごしたわけですが、その往路には、初めて小田急ロマンスカーを使ってみました。これまでは車利用ということが多かったのですが、今回は土曜日の15時過ぎまで、新宿でクラブツーリズムの講師の仕事をしていたものですから、渡りに船という感じで特急電車の利用です。前日に、現地に先に赴いている友人には、「16~16時半の小田急に乗るから」とメールしてあります。

 講義を終え、参加して頂いた方と、少しおしゃべりをしてから小田急の新宿駅へ。駅には15時30分過ぎに到着しました。すぐに発車する特急があったのですが、これは使用車両が「EXE」でしたから、あえて出発を遅らせて、16時10分発の「はこね39号」の切符を取ります。これは50000形「VSE」。もちろん「EXE」も悪くないのですが、小田急「ロマンスカー」には地元であることもあってあまり乗る機会がないものですから、どうせなら最上位クラスの「VSE」に乗ろうという算段です。もちろん、急行に乗っても、到着時間に変わりがあるわけではなく、30分待つくらいなら、さっさと急行に乗ってしまった方が、現地には早く着くわけです。このあたりは、小田急ロマンスカーが今、どうなっているのかを見ておきたいという好奇心のようなものも働いているわけです。

 3連休の初日とはいえ、少し遅い時間ということもあってか、切符は無事取れました。新宿発車時にはほぼ満員です。
 「はこね」の停車駅は、途中、町田と海老名、小田原です。町田を出ると、車内がガラガラになりましたから、新宿から町田までであれば少しの特別料金(特急料金=370円)を払ってでも、ゆったり座って行きたいと考える人がかなりいるということでしょう。

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町田を発車した後の車内

 海老名を発車してから、車内販売のコーヒーを購入。250円なりで、新幹線のコーヒーより少し高いのですが、こちらはクッキー付きです。
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 ワゴンをちょっと見ますと、小田急ロマンスカーの車内販売では、実に他品種の品物の販売が行われていることが解りました。
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 きっと、家族連れなどで、箱根に向かうとき、この車内販売でお弁当や、飲み物などを買うのは、すごく楽しいでしょうね。これだけの品数があるのだし、車内販売のワゴンも、頻繁に回ってきてくれます。
 これが「看板列車」に乗ることの楽しさなのだと感じました。「ロマンスカー」は新宿から箱根湯本まで、1時間20分あまりで到着してしまいます。ですから、車内販売をしても、どれだけの売り上げがあるのか。特にこのご時世でもありますから、その額は大きなものとはならないはずです。それでもロスが出るのを承知で、これだけの品数を扱い、車内販売が続けられている。それは小田急という会社が「ロマンスカー」の価値を、とても大切なものと考え、それが落ちてしまうことがないよう、頑張っているのだと、そう感じました。それは鉄道事業者にとって、自らの「商品」の価値を高める大切な仕事なのだと思います。
 もしかしたら、車内販売を止めてしまった方が、経営の効率は上がるのかもしれない。人のマネジメントだって大変ですから。車内に自動販売機を置いて済ませるという考え方もあるでしょう。けれども、そういった減量の連続が、現在の鉄道の、あまりにもビジネスライクな一面を生み出しているのだと思います。だから、鉄道事業者は、そういったことまで勘案して、サービスのスタイルを決定する必要がある。ヨーロッパの鉄道も、決してすべての列車が高い利用率があるわけではないのですが、食堂車などのサービスが現在も続けられている。鉄道にとって、それは当たり前のことであり、だから文化として根付くわけです。もちろん、彼の地の鉄道にしても、明日がどうなるかは解りませんが。

 コーヒーを楽しめたこともあって、箱根湯本にはあっという間に着いてしまったという感覚になりました。もっと乗っていたいのに、もうお終い?という感じです。
 まあ、久しぶりのロマンスカーはとても楽しかったので、今度はロマンスカーに乗るために、新宿から小田原か箱根湯本まで小旅行をしてみたいなと、今はそんなことを考えています。お金もさほどかかるわけではないし、これは是非、実行したいところです。

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箱根湯本駅ホームにて

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箱根湯本で折り返しを待つ50000形「VSE」。まだ夜の6時なのですが、この季節はもう真っ暗です。



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先日乗車してきた「SLやまぐち号」の新しい客車の写真を2枚アップします。

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客車のボックスシートはこのような感じです。ただし、編成中の5号車スハテ35 4001のみは背刷りが木製で、ずいぶん思い切った処理だと思いました。窓は昔ながらの開閉ノブのついたものですが、コンセントが設けられているのが、いかにも今風。それでも、新旧が見事にマッチしたデザイン処理だと思います。

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こちらは洗面所。やはり、細かなタイル貼り風の処理など、昔風のデザインです。でも、さすがにできたて。ピカピカです。いわゆる旧型客車の晩年は、このような設備が古びて、清潔感は今一歩という感じもありましたけれど、この車両は美しいままの姿で使われ続けることになるかもしれません。

これは写真には撮らなかったのですが、車端部の妻面には、昔ながらの鉄道路線図も貼られていました。私がまだ子供の頃は、鉄道の情報も少なかったですから、列車に乗って、そのような地図を目の当たりにすることにも、喜び、驚きを感じたものでした。そのような旅に出たことを実感させてくれる、この新しい客車での演出は、見事なものだと思います。

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上の写真は、津和野からの帰路の車内で食した津和野駅の駅弁「かしわめし弁当」。ポピュラーなスタイルの鶏めしですが、おかずがしっかりと入っているのが嬉しいところ。って、こういうあっさりしたおかずが嬉しい年齢に、私もなってしまいました。
当初の予定では、津和野駅で十分な時間があり、町で食事をする予定だったのですが、台風の後遺症か、この日の列車も全般に遅延気味で、食事は列車の中で、ということになったのでした。ところで、津和野駅で駅弁を探すと、売店に並べられていたのは3個だけ。私たち取材クルーは5人でしたが、「お弁当、これだけですよね?」と売店のおばちゃんに聞くと、「いくつ要るの?すぐに届けてもらうよ。何時の列車。15分後?間に合う、間に合う」と、工場の方に携帯で電話をしてくれたのでした。

お客様相手の仕事ですから、当たり前と言えば当たり前なのですが、ちょっとした心遣いは嬉しいものです。
それから、こういう時の会話を、いろいろな呼吸で楽しめるようになることも、歳を取ることの効用であるに違いありません。
歳を取るのも、悪いことばかりではないのです。


 私たち「みんなの鉄道」の取材クルーが「SLやまぐち号」に乗車した同じ日に、いすみ鉄道鳥塚社長も、この列車への乗車を企画し、しかし、台風の影響を考えて旅行を中止されたことは、ご自身のブログでも触れておられました。
http://isumi.rail.shop-pro.jp/?day=20170918

 それでは、台風(18号)が来ることが解っていながら、現地に向かった(もちろん、取材の手配がしてあるわけですから、列車が運休とならない限りは、現地に向かわなければいけません)行程を書いてみます。

 前日の夜に新山口に泊まり、朝から取材スタートというのが大まかな行程で、そのため、私たち5名は、前日(17日)の「のぞみ41号」に乗車しました。この列車ですと、私が乗車する新横浜は14時49分発、新山口着が18時57分着となります。新幹線利用ですと、片道およそ4時間の行程となり、やや長いのですが、飛行機を予約しても、台風による欠航の可能性があり、動く可能性の高い新幹線利用となったわけです。

 けれども、天気予報では、この日の午後に九州への上陸がアナウンスされていましたから、どこかで台風と「すれ違う」可能性が高い。まず、すんなりと着くことはないだろうとの予感を抱きながらの乗車となりました。

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こちら、豊橋駅通過直後の画像です。どこかで何かある可能性が高いので、ちょっと悪戯めきましがフェイスブックに実況することにしてみました。もちろん、台風が来る以上、必ず何だかの被害も出ることだろうし、それを面白がるわけにはいきませんが、鉄道がどのような対応を採るのかを探る、ということです。まだ、雨は降っていません。雲は怪しげですが、切れ間から青空も見えます。


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16時50分。京都発車。まだ雨は降ってきません。皆で、「台風はどこに行ったのだろう?」などと話していました。

 新大阪を出たあたりから、雨が降り始めました。台風に向かって居るのだから当然ですが、雨の勢いは瞬く間に強いものとなりました。

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相生駅で列車に抑止がかかります。駅といっても、「のぞみ41号」は、相生駅通過なので、列車も本線上に止まっています。後から後続の列車が追いつき、この列車は副本線の側に停車しました。

 やがて、ようやくにして列車が動き出したのですが、「のぞみ41号」は岡山で運転打ち切りとのこと。それよりも先にゆく人は、岡山で列車を乗り換えて欲しいとのことです。

https://www.facebook.com/eiji.ikeguchi

 岡山駅に着いた時が、土砂降りでした。フェイスブックに寄せられた友人からのコメントでは、台風は高知にいるとのこと。まさに再接近というところでしょうか。「のぞみ41号」の車内アナウンスでも、乗り継ぎ列車の列車名はアナウンスされ、まずはそれで広島まで行くようにということだったのですが、その列車がいつ来るのかが解りません。
 やがてホームが停電。すぐに復旧したのですが、駅員さんがどこからか非常用の照明装置を携えてきて、ホーム上に配置します。こういう時、鉄道の職員は真面目で、本当に頭が下がります。
 
 「のぞみ41号」が岡山で運転打ち切りとなったのは、単に台風の影響だけでなく、新岩国の付近で倒木があったためということでした。私たちが岡山に着いた頃には、架線への送電は再開されたとのことでしたが、最終的な安全確認に時間が要されているとのことです。

下は岡山駅で流されていたニュース映像。結構、大規模な倒木のようで、これであれば、復旧に時間がかかるのもやむを得ません。岡山で「のぞみ41号」の運転が打ち切りとなったので、「レンタカーで新山口まで走りますか?」とディレクターのKさんに訊いたところ「当然、それも考えました」との返事。まずは様子を見ながら、行けるところまで新幹線で行こうという腹づもりのようです。
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 最近は都会で鉄道に乗っていても、しょっつう列車が止まり、その都度、「安全を確認しております」というアナウンスが流されます。知り合いの鉄道ライターが、「安全を確認していますとアナウンスしてから運転士を見ていたけど、何もしなかった。あれ田ポタージュと違うんか?」と言っていたことがありましたが、でも、こういうときは、復旧現場で作業をする人には、本当に頭が下がります。

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 岡山で上の写真の列車に乗り換え、さらに広島でもう一度「こだま」に乗り換えました。案外遅くならなかった。それでも新山口着が22時過ぎとなりましたから、新横浜からは、7時間がかかったことになります。
ホテルにチェックインしてから、再度ロビーに集合し、居酒屋に向かったクルー一同の俊敏だったこと。何しろ速く行かないと閉店になってしまうというわけです。

インターバルを入れての7時間の乗車は、さすがに疲れました。この先がどうなるか解らないという不安も多少混ざっていたからだとは思います。12時に居酒屋が閉店し、部屋に戻ってベッドに入ると、3秒と経たず眠ってしまったようです。








 先にも書きましたとおり、この3連休の後ろの2日間を使って、「SLやまぐち号」に乗ってきました。もっともこれは個人的な旅行ではなく、CS放送(スカパー)で放映されている鉄道番組「みんなの鉄道」の取材の旅行です。番組は10月14日に「鉄道の日スペシャル」として放映されますので、是非、ご覧ください。「みんなの鉄道」も、お陰様で、10年以上放映が続けられている長寿番組となりました。その理由は、この番組の取材の方針が、無理に驚いたり、怒ったりするようなことはなく、現場の姿をありのままに伝えてきたことにあるのかなと思っています。ディレクターの方々も、鉄道について学び、その魅力を理解した上で番組作りをしていますので、私たち「鉄道が好きな人間」が見ても、まったく違和感がない。芸能人が出てきて、大げさな身振りで喜んで見せるようなことは、まったくありません。地味な作りではあるかもしれませんが(笑)、その確実さは、見る人が見ればすぐに解る。もし、気動車を電車と呼ぶような原稿が上がってきても、すぐに赤が入いります。

 さて、報告したいことは色々あるのですが、まずは9月2日から運転が開始された新しい「SLやまぐち号」用の客車の写真を2点アップしましょう。これまで、この列車の客車には12系客車改造の専用客車が使用されてきましたが、この車両も交替期を迎えたことから、今回新たに35系客車を名乗る5両編成が、新潟トランシスによって新製されました。

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 写真は、編成中1号車に連結されるオロテ35形。展望車マイテ49形を参考にして製作されたというグリーン車の展望車です。編成中、この車両だけがダブルルーフを採用しており、これはもちろん、実用面ではなく、旧型客車のイメージを追って採用されたという意匠ですが、アナウンスされているオハ31系のばかりでなく、客車特急として運転されていた「はと」「つばめ」に連結されていたスハニ35のイメージにも近いものになっているように感じます。
 
 編成はもちろん、全車空調完備ですが、屋上に取り付けられたクーラーは目立たないようにデザイン処理され、屋上にはダミーのガーランドベンチレーターも取り付けられています。他の車両も同様に旧型客車(そちらはオハ35系のイメージ)がうまく再現されており、蒸気機関車との違和感がありません。思えば運転が開始された頃の「SLやまぐち号」は、12系客車をそのままの姿で使用しました。もちろん、それは明快な方策であったわけですが、往年の蒸機列車の姿の再現を望む声は多く、その結果として先の改造車が使用されてきた。あるいは静岡県を走る大井川鐡道では、冷房がないことを承知で旧型の客車を用い、新潟県を走る磐越西線の「ばんえつ物語号」では、やはり改造客車が使用されてきた。改造客車は、乗り心地は快適ですが、どうしても機関車との釣り合いが取れず、そこにジレンマがあった。けれども、この新製された客車には、明快な回答があります。冷房や、あるいは水洗式の快適なトイレを装備しながら、しかし、外観はかつての旧型客車を思わせるこの方式は、これからのSL列車のスタンダードとなってゆくかもしれません。

 さて、室内の情景から1枚写真をアップします。3号車ナハ35形の室内にある「SL運転シミュレーター」です。列車内にシミュレーションを持ち込むギミックはこれまでにも例がありますが、このシミュレーターは観光色の強い列車のサービスの一つなのだから、その存在には意義があります。嬉しかったのは、インストラクターを務めていた女性のセリフで、私が「その逆転器は動くのですか?」と聞いたところ、快活に「はい。加減弁と一緒に使用して運転して下さい」という答えが返ってきました。

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 これはインストラクターさんが、ちゃんと勉強をした証で、それだけ真剣にこの列車のサービスが検討されてきたことが解ります。つまり、用意されたハードに見合うソフトが用意されているということです。日本では鉄道に限らず、「ソフトがハードに追いつかない」ことが多く、それが利用者を白けた気持ちにさせることが少なくなかったように感じますが、これであれば大丈夫かなと感じました(この車両には他に「かまたき体験ゲーム」も用意されています)。

 日本の「豪華列車」などでも、若いスタッフがはきはきと、けれどもすぐに「かしこまりました」と返事するスタイルに、私は少し不満を感じていました。アメリカでもヨーロッパでも、あるいは中国でも、列車のサービス担当スタッフは、もう少し、自由な会話を乗客と交わします。時にはジョークが連発されることもあるのがアメリカの長距離列車のスタイルで、けれども日本ではそういうことはまずない。それはマニュアルを作った人間が、実際に鉄道の旅行をしていないことの証であるように、私には感じられるのです。ホテルでは良くても、同じスタイルをそのまま列車に持ち込んで良いとは限らない。そのことを、マニュアル制作担当者が実感していないから、あのような答えばかりが返ってくるのだと、私はそう解釈しています。

 大切なのはハードとソフトのバランスが取れていることです。昨日見た限りでは、新「SL山口号」は合格。これからが楽しみなところです。

 記述が少し長くなりました。すみません。
(少し続きます)




17日、18日と、1泊2日の弾丸ツアーではあったのですが、山口線を旅してきました。
旅とはいっても、CSで放送されている鉄道番組「みんなの鉄道」の取材クルーの一人としての参加ではありましたが、それでも、実際に鉄道の旅行に出かけるというのは、良いものです。かならず、色々な発見があります。

特に今回は、この9月に新装なった「SLやまぐち号」用の客車がとても印象深いものとなりました。

詳細は後ほどアップしますね。
写真は徳佐駅に停車中の「SLやまぐち号」。
なんだか、子供の頃の夏休みの旅を思い出してしまうような雰囲気です。

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1973(昭和48)年8月の九州旅行では、少なくとも2回は筑豊の「迷路」にさまよいこんでいますし、吉松にも2度行っています。
その間に、友人と一緒に悩んだのが、室木線と高森線のどちらに行くか?ということでした。日程の関係だったのかどうか、解らないのですが、どちらかにしか行けない。室木線には8620形蒸気機関車がいて、高森線にはC12形がいる。その二者択一だったわけです。結論は、高森線でした。それが何故かはもう解りませんが、例によって急行を乗り継ぎ、鹿児島本線を南下します。熊本から豊肥本線に乗り換え、立野駅前の食堂で昼食に「かしわうどん」を食べたことを、これは今、思い出しました。「かしわ」とは鶏肉です。これは知っていました。昼ご飯を食べたのですから、お昼の12時過ぎに着いたのかと思います。そして、これも今、1972(昭和47)年3月の時刻表で見ると、高森線の客車列車が立野駅にやって来るのが14時頃です。

この時は、珍しく駅間で撮影をしました。有名な第一白川鉄橋ですが、駅から歩いて20分くらいの距離でしょうか。それから2時間近く、線路を見下ろす道路上で、ぼーっと時が過ぎるのを待った記憶があります。その後、写真を撮るようになって、つまり、鉄道だけが被写体ではなく、仕事としても写真を撮るようになって、カメラを構えてから2時間や3時間はそこから動かないということを時々やるようになったのですが、そんな時間待ちをしたのは、この高森線での撮影が初めてのことでしたから、やはり記憶に残る出来事となりました。

撮影ポイント、今日で言うところの「お立ち台」には10人くらいの人が集まっていたでしょうか。その人たちの真似をして、カメラに白いタオルをかけて、列車が来るのを待ちました。今なら、まあ、それほど人がいるわけでもありませんから、列車が来る直前まで、どこかで涼むようなことをするかもしれません。でも、この時は、こうやって待つことが正しい撮影法なのだ、なんて、少し背伸びもしていたのでしょうね。

列車の撮影はできました。C12形が引く客車列車です。後からネガを見ると、三脚を使っているのに、ずいぶんとシャープネスのない写真になっていて、あまりに長く待つ間にレンズの距離環を誤操作してしまったのかもしれません。これも今だったら…というところですが、とにかく、列車を待つ間、暑かった。この時の思い出はそればかりです。哲学的な収穫はゼロ。だからこそ、記憶に残っているのかもしれませんが。
(つづく)


前回、上りの「みやざき」に乗って、と書きましたけれど、このときに乗った列車は上りの「かいもん」だったかもしれません。次の日は筑豊地区に行くことを決めていましたから、それであれば、わざわざ門司を廻るよりも、最初から中間に向かい、そこから直方に向かった方が有利だからです。
もっとも、これも、もうどうでも良い話です。どちらにしても「かいもん」と「みやざき」は、この旅行での私たちの宿代わりとなっていました。ひたすら夜行連泊で宿代を浮かすわけですね。

実はこの友人とは、大学の4年の時、ですから九州旅行から6年後のこととなるのですが、また一緒に北海道に行っています。そのときは、私が学生であるにもかかわらず、車を持たせてもらっていましたから、それを使って、新潟からフェリーで小樽に回り、時にはテントで、時にはビジネスホテルで、といろいろな泊まり方をしていますから、北海道旅行の頃には、ビジネスホテルを利用することが、当たり前の選択肢になってきているのですね。北海道に行ったのは1979(昭和54)年のことです。

さて、「かいもん」だか、「みやざき」で向かった筑豊でも、結局は直方と、後藤寺、伊田あたりのホームの端ばかりいた記憶があります。直方が多かったかな。けれども、例によって駅間での撮影などせず、筑豊電鉄にも行っていません。どこかのタイミングで、「観光旅行」と称して、小倉の城址に登り、西鉄の北九州市内線を少し見学しています。
けれども、やはり、あまり熱心でない。やっぱり、門司港駅舎に特別の意識を持たなかったように、路面電車についても、危機感のようなものを抱いていなかったのでしょう。
今から考えれば、惜しいことだらけです。今の知識があれば、筑豊電鉄だけでない、廻ってみたいところが、それこそ無数に見つかる。

それでもまあ、何もかもを追いかけなかったからこそ、あれだけ伸びやかな旅ができたことは間違いがなさそうです。
(つづく)

 吉松駅に行った後は、恐らく吉都線で都城に出て、宮崎か、あるいは西鹿児島から急行「みやざき」門司港行きに乗っているはずです。これで夜行列車3連泊で、その次の日には佐賀にある母の実家にお世話になるのですが、私たち2人を出迎えた祖母が、私たち2人の「汚れっぷり」を見て呆れたのを覚えています。
「みやざき」も客車列車です。まだこの昭和48年当時は、本当に各地に、客車列車と夜行列車が残っていたのですね。それはもちろん、鉄道が近代的な姿に変わってゆく一過程の情景に過ぎないのですが、車両にバラエティがあって、特急に乗らずとも旅ができたこの時代も、本当に楽しい時代でした。特急でも京都~博多間が所要10時間というのも、何だか信じられない気持ちですが、それでも旅とはそういうものであって、それだけ時間のかかる遠い所だから、北海道でさえ、九州でさえ、私たちはあれほどに憧れたのでしょう。日本のどこでも飛行機で行ける今の時代の若い人には、この感覚は分からないし、どちらが良いということでもありません。

「みやざき」での門司着は6時07分。毎日、眠かったろうなあ。それにすべて非冷房車です。これもまたそういう時代だったからということですが、よく体が持ったものです。
「みやざき」を降りてからは、恐らく門司から中間経由で、直方に向かっていたはずです。
(つづく)

先にも書きましたけれど、このときの九州旅行で、南九州で廻ったのは、南宮崎と、吉松・人吉だけでした。当時はまだC60形、C61形という大型蒸気機関車がいましたし、日南線、志布志線あたりにC11形がいたはず。でも、このときは、そういうものを必死に追いかけてはいませんでした。結構、無頓着だったし、情報を集めるお金もなかったし、それよりも、目をつり上げていなかった一番の理由は、もうそこに行ければ満足という気持ちになっていたのだと思います。

記憶は飛んでいますが、朝の大淀川での撮影をすませて、そこから吉松に行ったということにしましょう。と言っても、ずーっと吉松駅のホームの端で、構内で動いている機関車を見て、写真に撮っていただけです。でもでも、本当に、それだけで嬉しいわけです。
昼食には、駅前の「安田食堂」に入りました。いわゆる大衆食堂で、あの頃は駅前には必ずそんなお店がありました。しかも、吉松駅前には、安田食堂の隣には「源平食堂」というのがありましたから2軒です。店の中のテレビでは、再放送で、森田健作さんが剣道をやっていました。番組の名前は、なんかこの辺、み~んな似た名前になっていたので不明。
食事を終え外に出ると、友人から「この店にはまた来よう」と言われたので、量があったのでしょうね。「よ~し」と返事しましたけれど。で、また薄暗くなるまで、ホームの端です。

実は吉松には、今から数年前に仕事で2回行きました。その1回目の時は、さすがに感慨深かった。40年ぶりくらいかな、って。駅前に出てみましたけれど、安田食堂も源平食堂もなく、そこには電器屋さんが建っていました。


夜行急行「かいもん」に乗って、次の朝どこに行ったのか?何故だろう、ここから急に記憶が曖昧になってしまっています。
恐らくは南宮崎に、「大淀川を渡る蒸機列車」の撮影に行っている。あるいはもしかしたら、吉松に駅での撮影に行っている。南九州で記憶に残っているのはそれだけで、吉松にはこの旅行中に2回行き、そのうち1回は吉松~人吉を往復しています。それは間違いなく、覚えているのですが、あとの記憶はまるで飛んでしまっています。

まず、南宮崎に行ったということにしておきましょう。朝の撮影でした。朝日の中を、蒸気機関車が引く列車が、次々にやって来る。まあ、どれもC57ばかりでしたけれど、でも幸せなことですよね、これ。橋の上で撮影をしていると、交通のお巡りさんがやってきて、道ばたに座りこんだ。いわゆる「ネズミ取り」のレーダーです。「君たち、どこから来たの?横浜かあ。いいなあ」と、それだけ話かけてもらったのを覚えています。いま、その人は80歳くらいかな。早いものですけれど。

こんな会話があったことも、今、ようやく思い出したのですが、そういう会話ひとつ、ひとつが、あの頃の私たちには粮になっていたのですね。そうやって、子供が大人になってゆく。大人も子供の面倒を、それとなく見ていたわけです。

そこで自分自身のことを振り返ると、ということになって、また頭が混沌としてしまうのですが、それはともかく。楽しいひとときでした。やがて暑くなり、南宮崎の日本食堂で、かき氷。
そう、この時代には、大きな駅にはたいがい改札のそばに日本食堂という、つまり列車食堂の一元的な経営をしている会社が、駅構内にも店を出していたのですね。当時から、このお店の味については、あまり褒められることは少なかったような気がしますが…、でも確かに便利ではありました。今日であれば、ファミレスであるとか、コンビニがこの役割を果たしているということになりますが、あの日本食堂の、平凡さも、なんだか今はとても懐かしい気がします。
(つづく)

(駅のうどんのこと)
九州旅行の、九州に着いた最初の夕食は、門司港駅の立ち食いうどんでした。なにしろ友人が、この旅行では経費を節約する。食事に駅弁などもってのほかで、食事は極力、駅のうどんで済ませると、これは出発前に宣言していたのでした。この宣言は、旅を続けてゆくごとにだんだん守られなくなってゆくのですが、ともかく、最初の夜は予定どおりうどんでした。

改修工事に入る前の門司港駅には、確かに立ち食い、と言いますか、駅のうどんがあった。さっそくそこに、気合いを入れて、入り、かけうどんを頼んだのでした。嬉しかったのはこのかけうどんに、ワケギと小さなカマボコが2切れ入っていたことで、東京の駅の立ち食いそばは、濃い出汁に麺がどかんと浸かり、薬味のネギは自分で器からつまんで入れて、という方式が多かったですから、九州ではこれが当たり前のスタイルなのでしょうが、彩りのあるうどんがご馳走に見えて、ああ、これなら「ずっとうどんで通せる」な、と思ったものです。まあ、高校生にしては食い意地が張っていますが。

数年前にも、門司港駅にはここにうどんのお店があったように記憶しています。駅舎の改修後はどうなるのだろう?きちんと同じ場所に店が構えられ、「立ち食いうどんの老舗」なんていう具合に人から呼ばれたら痛快なのですが。

素っ気ないうどんが、人を勇気づけることもある。最近は駅ナカビジネスと称し、けれどもお洒落なチェーン店ばかりが増え続けている。これは最近、東京の駅の名前を調べていて気がついたのですが、最近は、昔ながらの町名を復活させているものが少なからずあり、一時期流行った「○○ヶ丘」式のものが、増えなくなってきました。駅の供食事情もこれと同じように、そこに庶民の熱気が溢れているような、けれども値段の安い、造りは安普請の、お店が増えたら、案外これは鉄道復権に繋がるような気がします。
…でもないかな?
(つづく)

ご苦労なことに東京から足かけ2日をかけて門司に辿り着いた私たちは、急行「かいもん」に始発駅から乗るために、門司港に折り返します。門司港で立ち食いうどんの夕食を食べた記憶がありますから、当然駅前も見ているわけですが、この時は門司港の駅舎の撮影をしていません(大人になった後に、仕事で何回も出向くことにあるわけですが)。きっと、あの重厚な建物も、まだあの時代には、それほどの価値を感じなかったのかもしれません。同じような古い建物は、横浜にもたくさんありましたし。

だからこそ必要なのは定見であり、知識なのでしょうね。まだ、文化財の保存という事業が今日ほど重視されていなかった時代に、そのことを訴える人がいれば、社会はその方向を向くわけです。どれだけの動きが作れるかは運次第というところもありますけれど、まず、皆の目を向かせる必要がある。それには、何でも古いものは保存しろというようなマニア的な欲望が絡んでは駄目で、かえって蔑まれる可能性もあります。それからできることなら、保存活動に対する対投資効果までをプレゼンテーションできれば良い。もっとも、私にもそんなことはできないのですが、これからはそういう考え方を前面に押し出してゆくのも求められる資質になるような気がします。幸いなことに門司港駅舎は重要文化財に指定されて、現在はさらなる恒久的な保存のための改修工事の最中です。

ふう。暑いので先に行くぞ。

私たちは「かいもん」に乗り、西鹿児島へと向かいます。実はこの後の記憶は、もうごちゃごちゃになっていて、全然ストーリーを思い出せません。「かいもん」の窓から、八幡製鉄所の、夜も消えない明かりを、工場が後方に消え去るまで、ずっと見ていたのを覚えています。ようやく旅が本番というところではあるのですが。
(つづく)

今日が7月20日ですから、そろそろ、夏休みなんて言葉にも、違和感がなくなってきました。もっとも、私の場合でいえば、今年は夏休みがあるのか、どうか。まあ、休日も平日もない仕事ですから、特別な夏休みなど、ないのは当たり前ですが。

で、昭和48年の夏休みの旅の話のつづきです。復刻版の昭和47年の時刻表のダイヤが、私たちが旅した時と変わっていないのであれば、私たち2人が相生から乗ったのは、「ひかり55号」です。この列車の岡山着は13:00で、13:21分発の「玄海2号」博多行きに乗れる。交直流急行形電車ですね。非冷房でした。門司着19:10。いよいよ九州に到着です。日の長い九州でも、少し暮色が濃くなる時間であったかもしれません。友人とは「だれた」と話し合ったのを覚えています。暑くて疲れたということですね。「玄海」の車窓からも、博多へ向けて伸びる新幹線の橋脚が並んでいるのを、あちこちで見かけました。「嫌だなあ」というのが、その時の最初の感想でしたが、つまり、「去りゆくものを惜しむ」という、鉄道好きのいちばんよくある考え方が、そろそろすり込まれていたのでしょうね。東京を出てからここまで、写真はほとんど撮っていなかったはずです。フィルムに余裕なんかありませんから。今なら撮りまくりですよね。夜行列車の室内でも、立ち食い蕎麦でも、駅弁でも。
でも、今であれば、そもそも前日に家を出ることなどせず、「ひかり55号(東京発8:30)」に東京から乗ることを考えるでしょうから、あまり写真を撮らないというのは一緒かもしれません。
もちろん、当時だってそういう行程を組むことはできましたし、事実、この九州旅行の帰路は、夜行寝台特急と新幹線の乗り継ぎをして帰ってきています(取れた指定券が友人とは別々の席となり、彼は、自分が座った向かいの席の小さな女の子が、ずっと天地真理の歌を歌い続けていたので眠つけなかったと、列車を降りた後、グチってましたが)。最後に残った旅費を大盤振る舞いしたのですね。

それなのに、わざわざ大垣夜行など乗ったのは、やっぱりちょっとした冒険心のなせる業だったのだと思います。これも、今ほどの情報がない時代だからこそ、実現できたことなのかもしれません。(つづく)

私が大垣夜行に2回目に乗ったのは、中学時代に知り合った鉄道好きの友人と、2人で九州に旅行した時のことでした。それは昭和48年のことで、まだ九州に若干ながら、蒸気機関車が残っていた時代です。

東京から大垣夜行に乗り、大垣で西明石行きに乗り換え、それを草津で播州赤穂行きに乗り換え、相生から岡山までは山陽新幹線に乗る。すると、岡山で急行「玄海2号」に間に合い、九州に到着したら、門司港に折り返して夜行急行「かいもん」に乗るというのが往路で、このプランはその友人が考えたものですが、周遊券利用ですから急行の自由席を利用できる。1区間だけ新幹線に乗るというのを、よくもまあ思いついたものです。当時は隣の駅までであれば、新幹線の特定特急料金は400円だったと記憶していますし、グリーン車は、普通列車であれば、1枚のグリーン券で1日どこまでも行けましたから、関西圏もグリーン車で通過です。よくも、こんな乗り継ぎを思いついたものですが(急行「高千穂・桜島」という東京発の急行もあったのに)、彼にしても、家では時刻表と首っぴきだったのでしょう。

その彼に、これは九州の旅に出るずいぶん前、昭和46年頃だったと思いますが、大型時刻表のピンクの頁の最後に掲載されているクイズを、私から出題したことがあった。その問題というのはこういうものです。
「主人公のAさんは、東京に務めるOL。ある夜、明日、故郷の博多でお見合いがあることを思い出しました。慌てて家を出て、東京駅に着いたのが夜の11時過ぎ。さあ、Aさんを明日の夜6時までに、博多に到着させてください」
 これが今であれば、飛行機で一発です。何も悩むことはない。その気になればレンタカーで高速道を突っ走る手もある。あ、もちろん、新幹線もあるけれど、ともかくこの頃は、松本清張の『点と線』ではありませんが、飛行機を使うという頭がないわけです。東京から乗れる列車はもう大垣行きだけ(「銀河」は出た後です)。さあ、どうする?というもので、中学生の私も答えを見つけるのに、ずいぶん時間がかかりました。

私から問題を出された友人も、ずいぶん悩みました。大垣から西明石行きに乗って、と乗り継いでいると、博多着がリミットに設定された時間には間に合わないのです。どうする?どうする?とさんざん時刻表を前へ後ろへと悩み、しかし、乗り継げる列車がない。まさか山陰本線に行っても間に合わない。最後には「山陽新幹線に乗れないかな?」とまだ未開業の鉄道を口にして、彼もその瞬間気がついた。名古屋で大垣行きを降りて新幹線に乗り換え、京都から博多行きの特急「かもめ」に乗れば良いのです。どうしても、大垣まで行って西明石行きに乗り換えてしまうから着かない。気がつけば簡単なのですが、時刻表の乗り継ぎばかりを追い続けていると、なかなかそこに気がつかないのですね。めでたしめでたし。

しかしまあ、今、当時の時刻表を見てみると「かもめ」3Dの京都発は8:00、博多着は17:17で、京都から博多まで10時間近くかかっている。これは「よん・さん・とお」の時刻表のダイヤですが、「全国の鉄道のスピードアップが達成された」時代でも、そのスピードは、この程度のものだったわけです。
しかし、京都~博多所要10時間!今なら、ね。
(つづく)

それでまあ、コンビニ弁当でお昼ご飯を済ませ、昨日の続きを書いている池口です。

昨晩も友人と電話で話したのですが、コンビニの登場こそ、日本のこの50年の中での最大の革命だったのではないかと。マクドナルドの登場も衝撃的でしたが、コンビニが果たした役割は、マクドの比ではないと。これはもう自明の理ではありますけれど。

恥ずかしい打ち明け話をしますと、昔、「ムーンライト四国」に乗って、辿り着いた高知県の西の端のターミナル駅で、いきなりカメラのバッテリーが切れたことがあった。タカをくくっていて予備はなく、そのときはAFのフィルムカメラだったと思いますが、もうお手上げです。高知まで行って写真による記録ができず、あとは思い出に残すだけとなりました(まあ、その日のことは、何も覚えていませんから、記憶というメディアは実に当てになりませんし、何より悔しかったのでしょう)。
これが今であれば、携帯で最低限の撮影はできます。進歩した現代のスマホは印刷原稿に絶えるクオリティがありますから、十分ではないにしても、カメラのフォローをしてくれる。スマホのバッテリーや、メモリーが不足するのであれば、コンビニを見つければ何とかなるわけで、高尾山口駅近くのコンビニにメモリーカードがなかった時は唖然としましたが、まあ、何とかなった。
食料事情も同じことで、コンビニさえあれば、あとはどうにでもなりますから、つまり、詳細な計画などは不要ということになるわけですね。そりゃ、旅がつまらなくなるわけです。便利ではありますけれど。

コンビニがなかった時代の、夜行列車に乗った日の次の朝の朝食は何だったかというと、駅前にパン屋さんがあればOK(駄菓子屋さんのようなものでも可)、ホームの立ち食い蕎麦、駅弁、日本食堂、などが選択肢にあったかと思いますが、後ろの2つは非常用です。これに頼っていたら旅費がもたないわけで、同じ世代の仲間に話を聞いても、答えは同じでした。マーガリンだけ持って、現地でパンの耳を分けてもらっていた、という証言もあり、そこまでは思いつかなかったなあ、できなかったなあというのが、ちょっと残念でもあります。さりとて今更、そんなことはできないし。

でも、その昔は、商店が数軒集まっていれば、そこには食品店とも、食堂とも、駄菓子屋ともつかないようなお店が1軒はあって、そこでいなり寿司とか、大福とか、そんなものは入手できたものです。こういうお店には案外個体差があって、入ってみるまで何があるか解らない。今であれば、こんなお店を回るのも良いブログネタになりそうです。きっとあるだろうな、そういうブログ。まあこれもその昔、お昼ごはんを歌舞伎揚げだけばりばり食べて済ませた時には、少し気持ち悪くなった記憶がありますから、このあたりは、あまり細かく触れないでおきましょう。
(つづく)


さて、大垣夜行で朝の大垣に着いて、これからどっちに行こうかな?
考えてみれば、ずいぶんとたくさん、夜行列車に乗ったものです。それはもちろん、少しでもお金を倹約して、でも遠くに行きたいという欲求に対する答えであって、旅情がどうのこうのという問題ではなかったように思います。それに当時の鉄道旅行というものは、鉄道好きを自認するのであれば、そういうことをしなければいけないような、なんだかそんな雰囲気も、趣味界全体というか、友人の誰にも漂っていたような気がします。これは最近、鉄道好き(もちろん皆もうオジサン)の対談の席上で出た話題なのですが、新幹線などない時代に東京から北陸にゆくのであれば、夜行に乗って松本を経由し、さらに大糸線を経由して糸魚川に抜けるのが速くて効率的なのだと、そんな裏技を披露してくれた友人がおりました。もちろん、今はもうその手は使えないのですが、それを聞いた瞬間、一同、「やられた~」という感じで、私も、急行「能登」「越前」に乗って、あるいはうんと後日には特急「北陸」に乗って、北陸に出かけたことはありましたけれど、糸魚川を経由したことはありません。

まあ、そのような抜け道がたくさんあったのが新幹線も特急もなかった頃の鉄道旅行で、今から考えればずいぶんと悠長な道程ではありましたけれど、旅行というものはそういうものでしたし、時間がかかることはかまわないわけです。それだけ「遠くに行った」ことになるのですから。

で、話を大垣駅に戻します。
「私にとっての大垣駅は、走って登る跨線橋だった」
スポーツ選手の回顧録風であれば、そういうことになるのでしょう。格好良い言い方ですが、やっていることはみみっちい。次に乗る西明石行きで座るためですから。

まあ、そんなことはともかく、座ろうが立とうが(たいがいは座れた気がする)、予定通り次の列車に乗れて、旅はこれからが本番です。今はもう、私も「情報にすれて」しまっていて、そのような気持ちにはなかなかなれないのですが、初めて、あるいは2回目、3回目として大垣夜行に乗った頃は(何しろ40年くらい前のことですから)、現地で何を見つけても楽しかった。東京・横浜では見ることのできない車両であるとか、駅の「田舎っぽい」雰囲気というものが、たまらなく魅力的に感じました。

つまり旅に出たくて仕方なくなる気持ちというのは、あの非日常性に浸れることから湧いていたのでしょうね。「あの頃は楽しかった」と感じるのは、今は、情報伝達の方法が発達して、家から出かけなくてもいろいろなことを知れてしまえて、あの。非日常性になかなか出会えない。ただ、色々考えてみても、これを解決する方法はどうも見つからない。社会の環境が変わるのは、当たり前のことですし、必要なことなのですが、こと個人の旅について考えると、悩ましい問題が色々と出てくるようです。
(つづく)




(承前)
昨日、大垣夜行のことを書いて、今頃気がついたのですが、この列車には10回くらいは乗っているはずなのですが、毎回、朝食はどうなっていたのだろう?と、そのことが解らなくなりました。

名古屋で乗り換えた記憶はないし、すると毎回、この列車で大垣まで行っていたことになる。大垣では西明石行きに乗り換えるダッシュが恒例でしたから、食べ物を探す時間はなし。すると、その先で、食べていたのでしょうけれど、西明石行きを大阪まで乗り通せば10時。なんだか朝ご飯の時間でもありません。

この列車を使って、途中で何度が列車を乗り継ぎ、友人と2人で九州まで行ったことが2回ありました。1回目はまだ高校生の時で、この時は草津で西明石行きを降り、そこから草津発の播州赤穂行きに乗り換えることで、確実に座って京阪神をパスする。食事は草津で駅弁を買ったということを覚えています。何を買ったかまでは覚えていない。今なら絶対にスマホで1枚撮影しますから、記録は明確になるし、記憶もそうなるのですが、そうやって煎じ詰めてゆくと、旅の思い出というのは、どこまで鮮明なのが良いものなのか、ちょっと解らなくなります。

そして、この文章を書くために昭和43年10月の時刻表を見たのですが、やはりこの時代の時刻表は面白い。東京発大垣行きは夜行列車ですから、その線区の最後のページに記されるわけですが、大垣での乗り継ぎの列車は早朝発ですから、それを見つけるには、前のページに戻らなければいけない。こんなパズルが、当時の鉄道少年に楽しくないわけがありません。やっぱり、昔は良かったなあ。

そこで提案。「さん・まる・とお」とか題して、全国の列車ダイヤを、例えば昭和43年当時に戻してみるというのは、無理に決まっていますが、どんなものでしょうね?まあ、新幹線は無視しよう。急ぐ人は飛行機に乗りなさい。クルマでもいい。でも鉄道には、ブルートレインがあって、急行「高千穂」、あるいは「平安」なんてものもあって、どれに乗ります?迷いますよね。

まあ、こんなことをするには国鉄で働く人を45万人集めなければいけないのですが、もしそんな風に列車が動いたら、日本の社会はどこまで混乱するでしょうね?(つづく)

暑さはこれからが本番なのでしょうが、陽が沈んであたりが暗くなるのが、だいぶ早くなってきました。若い頃、つまり今から40年前とか、45年くらい前の自分を振り返ってみますと、1年のうちで今くらいの時期が、いちばん心が弾んでいた気がします。

それはもちろん、夏休みを前にして、旅行の計画を色々と立てられたからなのですが、学校の方はそろそろ試験の時期なのだけれども、試験勉強そっちのけで時刻表を見ていたのが、この時期でした。まあ、あの時代にもう少し真面目にやっていればとは思うのですが、そういうことを色々悔いてみるのも人生なのでしょう。そう思って諦めます。

それはともかく、私の家の親戚は西日本ばかりに住んでいましたから、学生時代の、それも中学、高校時代の親戚を頼って行く旅は、どうしても中国地方と九州に向かうことになりました。それでもそれらの地方にも、旅の目的の最たるものであった蒸気機関車がまだいましたから、それで十分。北海道に行けばC62形や炭鉱鉄道の機関車もいた時代ですが、そこまで見たいという気持ちにはなっていません。知ろうとしなかったし。

そこでいつも旅の出発点となるのが大垣行き夜行でした。当時の列車番号は143M。後には345Mともなる電車の列車ですが、私はこの列車が客車で運転されていた時代は知りません。客車列車時代の列車番号を引き継いでいたから、東海道の電車列車が300番台の列車番号をつけているのに、この列車だけ100番台だった。そんなことも当時は知りませんでした。

その頃はまだ「青春18きっぷ」などなく、列車の存在自体が、まだ知れ渡ってはいなかったので、東京駅に少し早く、夜の9時頃でしょうか、に出向けば、十分に席を確保することができましたし、1000円だけ奮発してグリーン車利用という手もありました。なにしろ、皆、自由席ですから。

この列車には何回乗っただろう?決して「寝心地の良い」列車ではなかったですし、朝も眠いのですが、ともかく、窓から中京圏の眺めが見えるようになっただけでワクワクしていたものです。今は新幹線での名古屋出張などがあっても、疲れを残さないようにとだけ考えて、それこそ窓の外さえろくに見ないで帰って来るのですから、駄目になったとは思います。(続きます)

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今回、2回ほど伊豆急行を訪れて、嬉しく感じたことに、この鉄道の駅にはたいがい駅員さんがいるということでした。駅に駅員さんがいるのは当たり前のことではあるのですが、ローカル線はどこも合理化合理化で、駅は無人のものばかりとなり、それどころか大都会の大きな駅でさえ、出札業務、改札業務が機械化されてしまったものですから、駅員さんは事務室に籠もってばかりいるような印象さえある。

伺った話では、伊豆急行でも合理化の推進は避けられず、駅員さんが初発電車に乗って駅に向かうところがあるということでした。つまり、初発電車を利用するお客さんにとっては、その駅は無人駅ということになります。
それでも、駅に職員さんがいることで、駅の雰囲気がぐっと明るいものとなっているように見受けられる。上の写真は伊豆高原駅で、この駅は運転、あるいは観光の中核となっている駅ですから別格的存在ですが、駅にはさまざまな施設が入居し、駅が文字通り、人々の暮らし、あるいは観光の拠点になっているのです。伊豆高原、伊豆急下田などの利用客の多い駅では、改札口に職員さんが立ち、改札業務、接客サービスにあたっています。

日本の鉄道の駅は、昭和の中期まで、地域住民の中核、心の拠り所となる役割を果たしてきました。ちょうど、欧米の教会のように。大きな駅の駅長さんは、その地域の名士であり、だから寄り合いなどがあると、お寺の住職さん、郵便局の局長さんなどと共に、その場に招かれたのです。そうやって、日本の社会は発展していきました。

地方が無人駅ばかりになってしまったことの弊害と思われることをここで書き出すと長くなりますが、もし鉄道会社が本気で「鉄道の復権」(この言葉自身に鉄道の失地が現れていますが)を考えるのであれば、まず駅に駅員さんを配置することから始めても良いのではないか。そんなことも感じたのです。もっとも、鉄道の復権を、まず鉄道会社自身が願っているのであれば、ということではあるのですが。


伊豆急行のニューカマー「キンメ電車」の写真を、とりあえず1枚アップします。
車両の端の出入口デッキ部分。本当に、ここまでやるか~?という感じです。
伊豆急行の方が「伊豆の庶民的な部分を表現」と笑っておりましたけれど、でも楽しかった。
また乗りたい?
もちろん!
鉄道車両にいちばん大切なことは、「この車に乗れば、どこか素敵な所に行ける」という夢を与えることだと思います。
「キンメ電車」には、その夢が満載されていますもの。

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