夜行急行「かいもん」に乗って、次の朝どこに行ったのか?何故だろう、ここから急に記憶が曖昧になってしまっています。
恐らくは南宮崎に、「大淀川を渡る蒸機列車」の撮影に行っている。あるいはもしかしたら、吉松に駅での撮影に行っている。南九州で記憶に残っているのはそれだけで、吉松にはこの旅行中に2回行き、そのうち1回は吉松~人吉を往復しています。それは間違いなく、覚えているのですが、あとの記憶はまるで飛んでしまっています。

まず、南宮崎に行ったということにしておきましょう。朝の撮影でした。朝日の中を、蒸気機関車が引く列車が、次々にやって来る。まあ、どれもC57ばかりでしたけれど、でも幸せなことですよね、これ。橋の上で撮影をしていると、交通のお巡りさんがやってきて、道ばたに座りこんだ。いわゆる「ネズミ取り」のレーダーです。「君たち、どこから来たの?横浜かあ。いいなあ」と、それだけ話かけてもらったのを覚えています。いま、その人は80歳くらいかな。早いものですけれど。

こんな会話があったことも、今、ようやく思い出したのですが、そういう会話ひとつ、ひとつが、あの頃の私たちには粮になっていたのですね。そうやって、子供が大人になってゆく。大人も子供の面倒を、それとなく見ていたわけです。

そこで自分自身のことを振り返ると、ということになって、また頭が混沌としてしまうのですが、それはともかく。楽しいひとときでした。やがて暑くなり、南宮崎の日本食堂で、かき氷。
そう、この時代には、大きな駅にはたいがい改札のそばに日本食堂という、つまり列車食堂の一元的な経営をしている会社が、駅構内にも店を出していたのですね。当時から、このお店の味については、あまり褒められることは少なかったような気がしますが…、でも確かに便利ではありました。今日であれば、ファミレスであるとか、コンビニがこの役割を果たしているということになりますが、あの日本食堂の、平凡さも、なんだか今はとても懐かしい気がします。
(つづく)
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(駅のうどんのこと)
九州旅行の、九州に着いた最初の夕食は、門司港駅の立ち食いうどんでした。なにしろ友人が、この旅行では経費を節約する。食事に駅弁などもってのほかで、食事は極力、駅のうどんで済ませると、これは出発前に宣言していたのでした。この宣言は、旅を続けてゆくごとにだんだん守られなくなってゆくのですが、ともかく、最初の夜は予定どおりうどんでした。

改修工事に入る前の門司港駅には、確かに立ち食い、と言いますか、駅のうどんがあった。さっそくそこに、気合いを入れて、入り、かけうどんを頼んだのでした。嬉しかったのはこのかけうどんに、ワケギと小さなカマボコが2切れ入っていたことで、東京の駅の立ち食いそばは、濃い出汁に麺がどかんと浸かり、薬味のネギは自分で器からつまんで入れて、という方式が多かったですから、九州ではこれが当たり前のスタイルなのでしょうが、彩りのあるうどんがご馳走に見えて、ああ、これなら「ずっとうどんで通せる」な、と思ったものです。まあ、高校生にしては食い意地が張っていますが。

数年前にも、門司港駅にはここにうどんのお店があったように記憶しています。駅舎の改修後はどうなるのだろう?きちんと同じ場所に店が構えられ、「立ち食いうどんの老舗」なんていう具合に人から呼ばれたら痛快なのですが。

素っ気ないうどんが、人を勇気づけることもある。最近は駅ナカビジネスと称し、けれどもお洒落なチェーン店ばかりが増え続けている。これは最近、東京の駅の名前を調べていて気がついたのですが、最近は、昔ながらの町名を復活させているものが少なからずあり、一時期流行った「○○ヶ丘」式のものが、増えなくなってきました。駅の供食事情もこれと同じように、そこに庶民の熱気が溢れているような、けれども値段の安い、造りは安普請の、お店が増えたら、案外これは鉄道復権に繋がるような気がします。
…でもないかな?
(つづく)

ご苦労なことに東京から足かけ2日をかけて門司に辿り着いた私たちは、急行「かいもん」に始発駅から乗るために、門司港に折り返します。門司港で立ち食いうどんの夕食を食べた記憶がありますから、当然駅前も見ているわけですが、この時は門司港の駅舎の撮影をしていません(大人になった後に、仕事で何回も出向くことにあるわけですが)。きっと、あの重厚な建物も、まだあの時代には、それほどの価値を感じなかったのかもしれません。同じような古い建物は、横浜にもたくさんありましたし。

だからこそ必要なのは定見であり、知識なのでしょうね。まだ、文化財の保存という事業が今日ほど重視されていなかった時代に、そのことを訴える人がいれば、社会はその方向を向くわけです。どれだけの動きが作れるかは運次第というところもありますけれど、まず、皆の目を向かせる必要がある。それには、何でも古いものは保存しろというようなマニア的な欲望が絡んでは駄目で、かえって蔑まれる可能性もあります。それからできることなら、保存活動に対する対投資効果までをプレゼンテーションできれば良い。もっとも、私にもそんなことはできないのですが、これからはそういう考え方を前面に押し出してゆくのも求められる資質になるような気がします。幸いなことに門司港駅舎は重要文化財に指定されて、現在はさらなる恒久的な保存のための改修工事の最中です。

ふう。暑いので先に行くぞ。

私たちは「かいもん」に乗り、西鹿児島へと向かいます。実はこの後の記憶は、もうごちゃごちゃになっていて、全然ストーリーを思い出せません。「かいもん」の窓から、八幡製鉄所の、夜も消えない明かりを、工場が後方に消え去るまで、ずっと見ていたのを覚えています。ようやく旅が本番というところではあるのですが。
(つづく)

今日が7月20日ですから、そろそろ、夏休みなんて言葉にも、違和感がなくなってきました。もっとも、私の場合でいえば、今年は夏休みがあるのか、どうか。まあ、休日も平日もない仕事ですから、特別な夏休みなど、ないのは当たり前ですが。

で、昭和48年の夏休みの旅の話のつづきです。復刻版の昭和47年の時刻表のダイヤが、私たちが旅した時と変わっていないのであれば、私たち2人が相生から乗ったのは、「ひかり55号」です。この列車の岡山着は13:00で、13:21分発の「玄海2号」博多行きに乗れる。交直流急行形電車ですね。非冷房でした。門司着19:10。いよいよ九州に到着です。日の長い九州でも、少し暮色が濃くなる時間であったかもしれません。友人とは「だれた」と話し合ったのを覚えています。暑くて疲れたということですね。「玄海」の車窓からも、博多へ向けて伸びる新幹線の橋脚が並んでいるのを、あちこちで見かけました。「嫌だなあ」というのが、その時の最初の感想でしたが、つまり、「去りゆくものを惜しむ」という、鉄道好きのいちばんよくある考え方が、そろそろすり込まれていたのでしょうね。東京を出てからここまで、写真はほとんど撮っていなかったはずです。フィルムに余裕なんかありませんから。今なら撮りまくりですよね。夜行列車の室内でも、立ち食い蕎麦でも、駅弁でも。
でも、今であれば、そもそも前日に家を出ることなどせず、「ひかり55号(東京発8:30)」に東京から乗ることを考えるでしょうから、あまり写真を撮らないというのは一緒かもしれません。
もちろん、当時だってそういう行程を組むことはできましたし、事実、この九州旅行の帰路は、夜行寝台特急と新幹線の乗り継ぎをして帰ってきています(取れた指定券が友人とは別々の席となり、彼は、自分が座った向かいの席の小さな女の子が、ずっと天地真理の歌を歌い続けていたので眠つけなかったと、列車を降りた後、グチってましたが)。最後に残った旅費を大盤振る舞いしたのですね。

それなのに、わざわざ大垣夜行など乗ったのは、やっぱりちょっとした冒険心のなせる業だったのだと思います。これも、今ほどの情報がない時代だからこそ、実現できたことなのかもしれません。(つづく)

私が大垣夜行に2回目に乗ったのは、中学時代に知り合った鉄道好きの友人と、2人で九州に旅行した時のことでした。それは昭和48年のことで、まだ九州に若干ながら、蒸気機関車が残っていた時代です。

東京から大垣夜行に乗り、大垣で西明石行きに乗り換え、それを草津で播州赤穂行きに乗り換え、相生から岡山までは山陽新幹線に乗る。すると、岡山で急行「玄海2号」に間に合い、九州に到着したら、門司港に折り返して夜行急行「かいもん」に乗るというのが往路で、このプランはその友人が考えたものですが、周遊券利用ですから急行の自由席を利用できる。1区間だけ新幹線に乗るというのを、よくもまあ思いついたものです。当時は隣の駅までであれば、新幹線の特定特急料金は400円だったと記憶していますし、グリーン車は、普通列車であれば、1枚のグリーン券で1日どこまでも行けましたから、関西圏もグリーン車で通過です。よくも、こんな乗り継ぎを思いついたものですが(急行「高千穂・桜島」という東京発の急行もあったのに)、彼にしても、家では時刻表と首っぴきだったのでしょう。

その彼に、これは九州の旅に出るずいぶん前、昭和46年頃だったと思いますが、大型時刻表のピンクの頁の最後に掲載されているクイズを、私から出題したことがあった。その問題というのはこういうものです。
「主人公のAさんは、東京に務めるOL。ある夜、明日、故郷の博多でお見合いがあることを思い出しました。慌てて家を出て、東京駅に着いたのが夜の11時過ぎ。さあ、Aさんを明日の夜6時までに、博多に到着させてください」
 これが今であれば、飛行機で一発です。何も悩むことはない。その気になればレンタカーで高速道を突っ走る手もある。あ、もちろん、新幹線もあるけれど、ともかくこの頃は、松本清張の『点と線』ではありませんが、飛行機を使うという頭がないわけです。東京から乗れる列車はもう大垣行きだけ(「銀河」は出た後です)。さあ、どうする?というもので、中学生の私も答えを見つけるのに、ずいぶん時間がかかりました。

私から問題を出された友人も、ずいぶん悩みました。大垣から西明石行きに乗って、と乗り継いでいると、博多着がリミットに設定された時間には間に合わないのです。どうする?どうする?とさんざん時刻表を前へ後ろへと悩み、しかし、乗り継げる列車がない。まさか山陰本線に行っても間に合わない。最後には「山陽新幹線に乗れないかな?」とまだ未開業の鉄道を口にして、彼もその瞬間気がついた。名古屋で大垣行きを降りて新幹線に乗り換え、京都から博多行きの特急「かもめ」に乗れば良いのです。どうしても、大垣まで行って西明石行きに乗り換えてしまうから着かない。気がつけば簡単なのですが、時刻表の乗り継ぎばかりを追い続けていると、なかなかそこに気がつかないのですね。めでたしめでたし。

しかしまあ、今、当時の時刻表を見てみると「かもめ」3Dの京都発は8:00、博多着は17:17で、京都から博多まで10時間近くかかっている。これは「よん・さん・とお」の時刻表のダイヤですが、「全国の鉄道のスピードアップが達成された」時代でも、そのスピードは、この程度のものだったわけです。
しかし、京都~博多所要10時間!今なら、ね。
(つづく)

それでまあ、コンビニ弁当でお昼ご飯を済ませ、昨日の続きを書いている池口です。

昨晩も友人と電話で話したのですが、コンビニの登場こそ、日本のこの50年の中での最大の革命だったのではないかと。マクドナルドの登場も衝撃的でしたが、コンビニが果たした役割は、マクドの比ではないと。これはもう自明の理ではありますけれど。

恥ずかしい打ち明け話をしますと、昔、「ムーンライト四国」に乗って、辿り着いた高知県の西の端のターミナル駅で、いきなりカメラのバッテリーが切れたことがあった。タカをくくっていて予備はなく、そのときはAFのフィルムカメラだったと思いますが、もうお手上げです。高知まで行って写真による記録ができず、あとは思い出に残すだけとなりました(まあ、その日のことは、何も覚えていませんから、記憶というメディアは実に当てになりませんし、何より悔しかったのでしょう)。
これが今であれば、携帯で最低限の撮影はできます。進歩した現代のスマホは印刷原稿に絶えるクオリティがありますから、十分ではないにしても、カメラのフォローをしてくれる。スマホのバッテリーや、メモリーが不足するのであれば、コンビニを見つければ何とかなるわけで、高尾山口駅近くのコンビニにメモリーカードがなかった時は唖然としましたが、まあ、何とかなった。
食料事情も同じことで、コンビニさえあれば、あとはどうにでもなりますから、つまり、詳細な計画などは不要ということになるわけですね。そりゃ、旅がつまらなくなるわけです。便利ではありますけれど。

コンビニがなかった時代の、夜行列車に乗った日の次の朝の朝食は何だったかというと、駅前にパン屋さんがあればOK(駄菓子屋さんのようなものでも可)、ホームの立ち食い蕎麦、駅弁、日本食堂、などが選択肢にあったかと思いますが、後ろの2つは非常用です。これに頼っていたら旅費がもたないわけで、同じ世代の仲間に話を聞いても、答えは同じでした。マーガリンだけ持って、現地でパンの耳を分けてもらっていた、という証言もあり、そこまでは思いつかなかったなあ、できなかったなあというのが、ちょっと残念でもあります。さりとて今更、そんなことはできないし。

でも、その昔は、商店が数軒集まっていれば、そこには食品店とも、食堂とも、駄菓子屋ともつかないようなお店が1軒はあって、そこでいなり寿司とか、大福とか、そんなものは入手できたものです。こういうお店には案外個体差があって、入ってみるまで何があるか解らない。今であれば、こんなお店を回るのも良いブログネタになりそうです。きっとあるだろうな、そういうブログ。まあこれもその昔、お昼ごはんを歌舞伎揚げだけばりばり食べて済ませた時には、少し気持ち悪くなった記憶がありますから、このあたりは、あまり細かく触れないでおきましょう。
(つづく)


さて、大垣夜行で朝の大垣に着いて、これからどっちに行こうかな?
考えてみれば、ずいぶんとたくさん、夜行列車に乗ったものです。それはもちろん、少しでもお金を倹約して、でも遠くに行きたいという欲求に対する答えであって、旅情がどうのこうのという問題ではなかったように思います。それに当時の鉄道旅行というものは、鉄道好きを自認するのであれば、そういうことをしなければいけないような、なんだかそんな雰囲気も、趣味界全体というか、友人の誰にも漂っていたような気がします。これは最近、鉄道好き(もちろん皆もうオジサン)の対談の席上で出た話題なのですが、新幹線などない時代に東京から北陸にゆくのであれば、夜行に乗って松本を経由し、さらに大糸線を経由して糸魚川に抜けるのが速くて効率的なのだと、そんな裏技を披露してくれた友人がおりました。もちろん、今はもうその手は使えないのですが、それを聞いた瞬間、一同、「やられた~」という感じで、私も、急行「能登」「越前」に乗って、あるいはうんと後日には特急「北陸」に乗って、北陸に出かけたことはありましたけれど、糸魚川を経由したことはありません。

まあ、そのような抜け道がたくさんあったのが新幹線も特急もなかった頃の鉄道旅行で、今から考えればずいぶんと悠長な道程ではありましたけれど、旅行というものはそういうものでしたし、時間がかかることはかまわないわけです。それだけ「遠くに行った」ことになるのですから。

で、話を大垣駅に戻します。
「私にとっての大垣駅は、走って登る跨線橋だった」
スポーツ選手の回顧録風であれば、そういうことになるのでしょう。格好良い言い方ですが、やっていることはみみっちい。次に乗る西明石行きで座るためですから。

まあ、そんなことはともかく、座ろうが立とうが(たいがいは座れた気がする)、予定通り次の列車に乗れて、旅はこれからが本番です。今はもう、私も「情報にすれて」しまっていて、そのような気持ちにはなかなかなれないのですが、初めて、あるいは2回目、3回目として大垣夜行に乗った頃は(何しろ40年くらい前のことですから)、現地で何を見つけても楽しかった。東京・横浜では見ることのできない車両であるとか、駅の「田舎っぽい」雰囲気というものが、たまらなく魅力的に感じました。

つまり旅に出たくて仕方なくなる気持ちというのは、あの非日常性に浸れることから湧いていたのでしょうね。「あの頃は楽しかった」と感じるのは、今は、情報伝達の方法が発達して、家から出かけなくてもいろいろなことを知れてしまえて、あの。非日常性になかなか出会えない。ただ、色々考えてみても、これを解決する方法はどうも見つからない。社会の環境が変わるのは、当たり前のことですし、必要なことなのですが、こと個人の旅について考えると、悩ましい問題が色々と出てくるようです。
(つづく)




(承前)
昨日、大垣夜行のことを書いて、今頃気がついたのですが、この列車には10回くらいは乗っているはずなのですが、毎回、朝食はどうなっていたのだろう?と、そのことが解らなくなりました。

名古屋で乗り換えた記憶はないし、すると毎回、この列車で大垣まで行っていたことになる。大垣では西明石行きに乗り換えるダッシュが恒例でしたから、食べ物を探す時間はなし。すると、その先で、食べていたのでしょうけれど、西明石行きを大阪まで乗り通せば10時。なんだか朝ご飯の時間でもありません。

この列車を使って、途中で何度が列車を乗り継ぎ、友人と2人で九州まで行ったことが2回ありました。1回目はまだ高校生の時で、この時は草津で西明石行きを降り、そこから草津発の播州赤穂行きに乗り換えることで、確実に座って京阪神をパスする。食事は草津で駅弁を買ったということを覚えています。何を買ったかまでは覚えていない。今なら絶対にスマホで1枚撮影しますから、記録は明確になるし、記憶もそうなるのですが、そうやって煎じ詰めてゆくと、旅の思い出というのは、どこまで鮮明なのが良いものなのか、ちょっと解らなくなります。

そして、この文章を書くために昭和43年10月の時刻表を見たのですが、やはりこの時代の時刻表は面白い。東京発大垣行きは夜行列車ですから、その線区の最後のページに記されるわけですが、大垣での乗り継ぎの列車は早朝発ですから、それを見つけるには、前のページに戻らなければいけない。こんなパズルが、当時の鉄道少年に楽しくないわけがありません。やっぱり、昔は良かったなあ。

そこで提案。「さん・まる・とお」とか題して、全国の列車ダイヤを、例えば昭和43年当時に戻してみるというのは、無理に決まっていますが、どんなものでしょうね?まあ、新幹線は無視しよう。急ぐ人は飛行機に乗りなさい。クルマでもいい。でも鉄道には、ブルートレインがあって、急行「高千穂」、あるいは「平安」なんてものもあって、どれに乗ります?迷いますよね。

まあ、こんなことをするには国鉄で働く人を45万人集めなければいけないのですが、もしそんな風に列車が動いたら、日本の社会はどこまで混乱するでしょうね?(つづく)

暑さはこれからが本番なのでしょうが、陽が沈んであたりが暗くなるのが、だいぶ早くなってきました。若い頃、つまり今から40年前とか、45年くらい前の自分を振り返ってみますと、1年のうちで今くらいの時期が、いちばん心が弾んでいた気がします。

それはもちろん、夏休みを前にして、旅行の計画を色々と立てられたからなのですが、学校の方はそろそろ試験の時期なのだけれども、試験勉強そっちのけで時刻表を見ていたのが、この時期でした。まあ、あの時代にもう少し真面目にやっていればとは思うのですが、そういうことを色々悔いてみるのも人生なのでしょう。そう思って諦めます。

それはともかく、私の家の親戚は西日本ばかりに住んでいましたから、学生時代の、それも中学、高校時代の親戚を頼って行く旅は、どうしても中国地方と九州に向かうことになりました。それでもそれらの地方にも、旅の目的の最たるものであった蒸気機関車がまだいましたから、それで十分。北海道に行けばC62形や炭鉱鉄道の機関車もいた時代ですが、そこまで見たいという気持ちにはなっていません。知ろうとしなかったし。

そこでいつも旅の出発点となるのが大垣行き夜行でした。当時の列車番号は143M。後には345Mともなる電車の列車ですが、私はこの列車が客車で運転されていた時代は知りません。客車列車時代の列車番号を引き継いでいたから、東海道の電車列車が300番台の列車番号をつけているのに、この列車だけ100番台だった。そんなことも当時は知りませんでした。

その頃はまだ「青春18きっぷ」などなく、列車の存在自体が、まだ知れ渡ってはいなかったので、東京駅に少し早く、夜の9時頃でしょうか、に出向けば、十分に席を確保することができましたし、1000円だけ奮発してグリーン車利用という手もありました。なにしろ、皆、自由席ですから。

この列車には何回乗っただろう?決して「寝心地の良い」列車ではなかったですし、朝も眠いのですが、ともかく、窓から中京圏の眺めが見えるようになっただけでワクワクしていたものです。今は新幹線での名古屋出張などがあっても、疲れを残さないようにとだけ考えて、それこそ窓の外さえろくに見ないで帰って来るのですから、駄目になったとは思います。(続きます)

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今回、2回ほど伊豆急行を訪れて、嬉しく感じたことに、この鉄道の駅にはたいがい駅員さんがいるということでした。駅に駅員さんがいるのは当たり前のことではあるのですが、ローカル線はどこも合理化合理化で、駅は無人のものばかりとなり、それどころか大都会の大きな駅でさえ、出札業務、改札業務が機械化されてしまったものですから、駅員さんは事務室に籠もってばかりいるような印象さえある。

伺った話では、伊豆急行でも合理化の推進は避けられず、駅員さんが初発電車に乗って駅に向かうところがあるということでした。つまり、初発電車を利用するお客さんにとっては、その駅は無人駅ということになります。
それでも、駅に職員さんがいることで、駅の雰囲気がぐっと明るいものとなっているように見受けられる。上の写真は伊豆高原駅で、この駅は運転、あるいは観光の中核となっている駅ですから別格的存在ですが、駅にはさまざまな施設が入居し、駅が文字通り、人々の暮らし、あるいは観光の拠点になっているのです。伊豆高原、伊豆急下田などの利用客の多い駅では、改札口に職員さんが立ち、改札業務、接客サービスにあたっています。

日本の鉄道の駅は、昭和の中期まで、地域住民の中核、心の拠り所となる役割を果たしてきました。ちょうど、欧米の教会のように。大きな駅の駅長さんは、その地域の名士であり、だから寄り合いなどがあると、お寺の住職さん、郵便局の局長さんなどと共に、その場に招かれたのです。そうやって、日本の社会は発展していきました。

地方が無人駅ばかりになってしまったことの弊害と思われることをここで書き出すと長くなりますが、もし鉄道会社が本気で「鉄道の復権」(この言葉自身に鉄道の失地が現れていますが)を考えるのであれば、まず駅に駅員さんを配置することから始めても良いのではないか。そんなことも感じたのです。もっとも、鉄道の復権を、まず鉄道会社自身が願っているのであれば、ということではあるのですが。


伊豆急行のニューカマー「キンメ電車」の写真を、とりあえず1枚アップします。
車両の端の出入口デッキ部分。本当に、ここまでやるか~?という感じです。
伊豆急行の方が「伊豆の庶民的な部分を表現」と笑っておりましたけれど、でも楽しかった。
また乗りたい?
もちろん!
鉄道車両にいちばん大切なことは、「この車に乗れば、どこか素敵な所に行ける」という夢を与えることだと思います。
「キンメ電車」には、その夢が満載されていますもの。

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7日、8日と、伊豆に出かけてきました。伊豆急行の旧型電車に関する取材がメインの旅ではあったのですが、それと一緒に、2月4日から動き始めた「キンメ電車」のお話も伺うことができました。

まあ、これ、とにかく楽しい電車です。基本は同社の看板車両である「2100系 リゾート21」の1編成を、内装に手を加えて、伊豆を代表する人気の食材である金目鯛をプロモートしているものなのですが、室内には、いたるところに金目鯛のイラストが入れられ、窓上には金目鯛に関するトリビアネタや、伊豆急行沿線の各自治体による金目鯛のPRが掲げられ、とにかく賑やかです。いずれ記事にして発表する心づもりでおりますが、まずは外観の写真を1枚。伊豆急行でも、もっとも有名な撮影場所である川奈~富戸間での撮影。
午後の少し遅い時間の撮影ですが、太陽が山に隠れることもなく、きれいに撮ることができました。
やはり、春が近づいていることを実感した撮影となりました。
いや~、しかし、電車の中にいったい何匹の金目鯛が描かれていたことやら!

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↑線路からやや離れた国道からの撮影。100mm以上の望遠レンズがあると良い場所です。






 もう1枚、1月3日の秩父鉄道行で撮影した写真です。鉄道写真の撮影スポットとして有名な白久駅西側での撮影。この季節としては遅い時間の撮影なのですが、そこはデジタルカメラのこと。難なく、走りを撮ることができました。

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写真は三峰口行きの回送列車で、これが三峰口駅折り返しの池袋行きとなることは解りましたから、白久駅からこの折り返しの列車に乗車し、池袋まで乗り換えなしで着くことができました。写真の4000系は、ボックス式のクロスシートを備えた車両で、昔の国鉄急行型電車に乗っているような味わいがあり、ロングシートの通勤型よりも、乗っていて遙かに楽しいものです。

そういえば、西武鉄道では、この3月25日から、土曜・休日に西武秩父駅と元町・中華街駅を直通する「S-TRAIN」の運転を開始します(平日は所沢~豊洲間の運転)。車両には新造の40000系が充当され、この車両が写真の4000系の後継に位置づけられるのでしょう。腰掛けにはロングシートとクロスシートの両方で使えるデュアル式のものが用いられ、トイレはもちろん、各ボックスにコンセントも設けられることがアナウンスされています。
 やはり、長距離運転の列車の登場は、鉄道旅行好きをワクワクさせるものですが、せっかくなら、もう一声頑張って、車内販売的なサービスも提供して欲しいところです。鉄道旅行に大切なのは、乗り心地の良い車両ももちろんですが、鉄道に乗って旅をすることの楽しさをアピールする演出なのですから。




 1月8日に秩父鉄道で撮影会を行いました。前日に雪が降り、開催が危ぶまれたのですが、当日は雪も止み、少しだけ積もった雪は良いアクセントとなってくれました。

 ところで下の写真は、1月3日に出かけた下見で見かけた情景。影森駅に待機中の貨物列車です。フェイスブックの友人が教えてくれたところでは、影森と、この駅から引き込み線が延びるセメント工場の間に平日に限って午前中に3本の貨物列車が設定されているのだそうです。写真の列車は、明朝に備えて待機しているものなのでしょう。
 
 昔は全国を走っていた貨物列車も、今やすっかり本数が減り、特に私鉄を走るのはごく限られた本数となってしまいました。
 1月3日は、何しろ正月3が日のことですから、貨物列車の運行を望むことなどできないわけですが、次の機会には、実際に貨物列車が動くシーンを見たいと思いました。

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筑後川昇開橋のすぐ近くに九州貨幣博物館があります。世界中のさまざまな貨幣がコレクションされている中で、いちばん、忘れ難いのが、写真の西郷札です。
 松本清張の小説の題材ともなったこの貨幣は、薩摩藩が軍資金を調達するためにやむなく発行した私的なものに近い通貨でしたが、西郷軍の没落によって、貨幣としての価値を失い、西郷札を信用したものは没落したとあります。
 九州貨幣博物館が改修のため休館となり、目下、この貨幣を紹介するタイミングも失われている感があります。
 博物館は小さなもので、私が訪れた時も、来館者は私一人きりでしたが、もし、昇開橋を再訪する機会があり、そのときに博物館が開かれていたのなら、是非もう一度訪れてみたいと考えています。
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11日(木曜日)は近江多賀で行われた「多賀SLアクション」に参加させて頂きました。
 これは「多賀SLパーク」跡地に置かれているD511149号機を活用し、多賀の活性化を図ろうというプロジェクトで、今回はその第一回。私はトークショーに参加させて頂き、蒸気機関車の魅力、鉄道旅行の楽しさなどをおしゃべりさせて頂いて、下の写真は、トークショー終了後の、参加者の皆さんとの記念写真です。なんだか、私だけ出しゃばっていますね。ごめんなさい。
 写真でも解るように、この機関車はやや痛みが目だつ状態になっていますが、出来るのであれば、これを本線上で復活運転させたい。けれども、早急にはそれが無理であれば、どのような形が、機関車の活用になるのか?色々な方法がある。夢はどんどん広がります。
 きょうは、「なるべく早く第2回を開催したい。その時は、会場で物販などもやってみたい」、というようなことを皆で話し合ってきました。これが一大プロジェクトと呼べるようなムーブメントになるのか?応援して下さい。
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国鉄の時代は、何故、これほど懐かしいのだろう。
駅はボロかったし、無愛想な駅員さんだってたくさんいたし、列車だって、乗り心地の良くないものがたくさんあった。
でも、今は懐かしい。あの頃の国鉄には、優しく人を抱きしめてくれるような優しさもあったのだろうなと、懐かしさの理由について、今はそう考えてみている。

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九州鉄道記念館の保存車両はピカピカだ。
「こんなにきれいなのだから、動くのでしょう?」とお客様に質問されると、副館長さんは、
「はい。夜の間は動いているようです。朝になると、元の場所に戻って来ていますが」
と応えて、お客様を煙に巻くのだそうな。
輝いているもののそばにいることは楽しい。
車両でも、駅でも、人でも。九州1

上の文章は今日(3日)フェイスブックにアップしたものです。
九州の話が出たついでに、しばらく九州の写真をアップして放浪気分を味わってみることにしたいと思います。
学生時代(高校時代も含めて)の夏休みといえば、決まって九州に出かけていたものですから。


昨日はフェイスブックに以下の文章を書きました。大井川鐵道に取材に出向いた際に撮った写真です。

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写真は新金谷に留置中のオハニ36だけれども,オハ35系であれ,オハ61系であれ,昭和の鉄道が好きだった者にとっては,この旧型客車というやつは,思い出の中の実にさまざまなところで,脇役として登場してくれる。
 いちばん,鮮烈な思い出は,五能線で乗ったオハ61。それは80年代の初めのことだから,そろそろ客車列車の数が減り始めていて,その日は,当初の予定を変更して客車列車に乗ったのだった。
 その前日に,津軽鉄道の車内で,どこか都会から来た鉄道好きの人と列車談義となった。「五能線には乗りに行かないの?」と訊かれたときは,その気がないことを答えたのだけれど,あの会話の後に五能線に「全線通し」で走る客車列車が残っていることを見つけたのだから前言撤回もやむ無しといったところ。津軽鉄道の車内で「行こうかどうか,迷っています」くらいのことを言っておけば良かったのかな?などと思いながら,窓の外を見ていた。
 岩館駅で,上下の客車列車が交換する。ふと見ると,反対側の列車に,昨日津軽鉄道で会った人がいた。
 向こうもこっちに気がついた。慌てて窓を開けて,離れ行く列車の中から,手を振り合った。なんだか恋人同士みたいだったけれど,嬉しかった。
 さすがにこの人とは,フェイスブックでも再会できていないけれど,こんなことだってあるのだから,客車は豪華な内装ばかりが良いとは限らない。窓の外をぼんやり見る気持ちになれること,それからやっぱり,窓は開いた方が良いのだ,本当は。

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幾つかのコメントがついたのですが,やはり皆,昔の旅は思い出深かったようで,特に誰かとの触れあいがあったことが,忘れられない思い出となっているようでした。
旅に出ることが,人格形成のようなものに役立つことがあるのだとすれば,世界の広さを知り,ときには孤独にさいなまれ,そして人と触れあうことがあるからでしょう。
もちろん,しじゅう旅だけしている人が,全人格を歓迎できるようになるわけではありませんが,そんなことも考えさせられました。


大井川鐡道新金谷駅近くの側線に留置されている14系客車です。「はまなす」での用途廃止の後にこの地にやって来た4両で、昨日にメディアックスの編集さんと一緒に出かけた際に撮影したものです。明るい太陽の下でアップで見ると、さすがに痛みが目につきますが、そこはこれまでにあらゆる車両を手直ししてきた大井川鐡道のこと。これから十分に手間をかけてお色直しをすることでしょう。

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