相鉄の横浜駅を撮影した後は、線路に沿って、次の平沼橋駅まで歩いてみることにしました。
平沼橋駅の近くには、こんな看板が。

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明治の初め頃に、このあたりに新しく道路が造られ、それは旧東海道から分岐して、横浜の港へ向かうもので、「横浜道」と呼ばれた、ということが書かれてあります。(この看板の文面は、同じものが「横浜市西区のホームページ」にも掲載されています。

確かに、新橋~横浜間に鉄道が開通したとき、現在の横浜駅周辺は、一帯が沼地で「平沼」と呼ばれていたことは知っていました。で、ここが湿地帯であったことから、線路はこの入江の入口付近を埋め立てて、海の中に築堤を築き、現在の桜木町を目指したわけです。

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↑その頃の風景(出展:「写真が語る沿線」 http://touyoko-ensen.com/syasen/yokomoto/ht-txt/yokohama01.html

もちろん、線路が敷設されるよりも早く、東海道筋から港が開かれることになった横浜村に向かう道も必要になった。そこで「横浜道」が拓かれたということになります。ちなみに、それまでは東海道筋から横浜に向かうには、この看板にある記述に拠れば「保土ケ谷から井土ケ谷、蒔田を通るか、神奈川からの舟運しかなかった」といいますから、陸路ではかなりの回り道ですし、舟の利用というのも面倒な話です。

それでは、「横浜道」がどこを通ったのかというと、これは「オレンジトカゲさんのブログ」に詳しいのですが、現在の浅間下交差点付近で東海道から分岐し、岡野町付近を通って(すなわち、現在の平沼橋駅付近を通って)、海岸線の近くにまで出て、そこからは少し内陸部にわけ行って野毛の山を越え、関内付近に出ています。

もっとも、東海道の神奈川宿があったのは、現在の東神奈川駅の海寄りのあたりから、横浜駅の山側の現在は台町という名の一画にかけてで、
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↑広重の版画に描かれた場所

そこから野毛を超えて関内方面に向かうのですから、コースとしては、ほぼ直線的に横浜港に向かっています。ただ、途中には湿地を越えるためのいくつかの橋があり、野毛山を超えるために長い坂道を上り下りしなければなりませんでした。

こうして考えてみると、明治期の横浜は、鉄道の開通を機に、驚くほどの変貌を遂げた。そして、それまでの横浜村は、東海道筋からも遠く離れた、本当に小さな漁村に過ぎなかったということになります。





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5月1日に、兵庫県の明延に行ってきました。明延に行ったのは、この日が、かつての「1円電車」の運転日で、前回に明延を取材した時にお世話になったNPO法人のスタッフの方も、現地に出向かれる日であることを伺ったからでした。

いま、明延では、月に1回、かつての「1円電車」の客車をバッテリーロコで牽引し、およそ70mの線路を使用して運転しています。乗車の料金は無料で、寄付は受け付けるとのこと。私は500円寄付しましたので、「これで500回乗車できますね」と申したところ、「はい。もう何回でも乗って下さい。ただ、今日じゅうに500回は運転できないと思います」と受付の方。実際には、1往復のみの乗車となりましたが、「列車」は、15時の運転終了の時間まで、絶え間なく運転されていました。

明延の様子は、メディアを借りて、順次報告させて頂きますが、印象的だったのは、お話を伺った方の「私たちが目指すものは、収入を得るということを第一義とはせず、明延の明延らしい姿を残していきたいということです」という言葉でした。

それから、「ボランティアでお願いしたい仕事はたくさんあるので、興味のある方は、ぜひ明延に来て、私たちの仕事を手伝って下さい」とも。この日も、大阪から来た方が、運行の手伝いをなさっていて「こうしていると、本物を運転したいという気持ちが、いよいよ強くなってしまいます」と笑いながら仰って下さいました。

多くの人の笑顔に出会うと、本当に清々しい気持ちになれるものです。

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取り壊しか、保存かで揉めた横浜の赤煉瓦倉庫の保存が決定した時は嬉しかった。何か、特別な意識があったわけではないけれど、地元に住むものとして、誇りにできる建物であったし、あれだけのものを、保存できるのに、壊してはいけないと思っていたから。
 今、あの2棟の倉庫は立派にランドマークとなっている。あの倉庫が建つ新港地区は、昔はなんとなく暗い雰囲気があったから、観光客が押し寄せているいまは、180度の変わりっぷりである。ただ、建物の中に入っているのが、ほとんどすべて商業施設となってしまっていることには、まだ割り切れないでいる。仕方ないのだろうけれど。

 去年のちょうど今頃は、山形と秋田を回っていた。取材先にずいぶん無理を言って日程を調整していただき、その途中に寄ったのが、写真の善宝寺鉄道記念館。
 
 この施設が開館したのを知ったときには、「何故、こんな場所に鉄道の記念館を作るのだろう?」と不思議でならなかったが、現地を訪れて理解できた。駅施設に隣接する善宝寺に、結構な参拝客があるのだ。ただ、お寺に来る「普通の観光客」にとっては、無くなってしまった鉄道の記念館など、それほど面白いものではないということだろう。せっかくの記念館も90年代の終わりには閉館となってしまった。それでも20年は開かれていたのだから、よくやったということなのだろうか。

 去年の時点でも、もうここまで荒廃している。現状は知らないけれど、おそらく、この頃に加えて1年分の荒廃が進んでいるのだろうと思う。

 これほど荒れてしまうのであれば、最初から記念館などにしなければ良かったのか、それとも一度は記念館が開かれたことを、素晴らしいと評価するべきなのだろうか。素晴らしいと言えるかどうかはともかく、そこに行いがあったことは良かったのだと思う。少なくとも、何もしないよりは100倍くらい。0に100を掛けても0にしかならないとは、言わない。

 そういえば、この少し以前に訪ねたことのある、津軽中里にも小さな博物館があって、「教職に落ちたもので、ここに来ました」と笑いながら、学芸員さんが頑張っていた。帰りの津軽鉄道の車内でアテンダントのおばちゃんに訊いた話では、「あの方が来ただけで、津軽中里が変わったんです」とのこと。

 芽吹きはどこにでもある。確かに最初は小さいものでしかないけれど。


もう一枚、高知県の四万十町中津川の写真から。
中津川の集落のはずれには、林の中に能舞台が作られていました。でも、最近はほとんど使われていないような雰囲気です。地方で暮らす人が、このような所でふれあっていた時代は、なんだか、素晴らしい時代であったような気がします。けれどもそんなことを感じることは、旅行者の身勝手なのかもしれないと、そんな思いも同時に押し寄せてきて、そのやるせなさをどこにぶつけたら良いのか、何が何だか、解らなくなってしまいました。
そういえば、この日、村のあちこちをガイドしてくれた方が、「高知市から孫が遊びに来ることがあるのだけれど、孫は、「マクドナルドに連れて行って」とせがむんだ。そう言われても…」と、苦笑いをしていました。

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もう一度、高知県四万十町中津川に戻ります。
この集落を通り過ぎていた森林軌道は、ちょうど集落の真ん中のあたりに、アーチ橋をかけて、流れをまたいでいました。
アーチ橋の遺構はまだ残っていて、遠い日を偲ばせてくれました。
この日、ガイドを務めてくれた男性(私より少し年上のようです)は、子供の頃、この橋を歩いて渡ったのだそうです。
「怖かった」
そうですが、橋を渡らないと、ものすごい遠回りになってしまうのだそうです。
森林軌道は、そういう意味でも、ここに住まう人たちの役に立っていたことになります。

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きょうは雨で、外出しようか思っていたのに、気持ちがくじかれてしまった。で、少し前の、きょうと同じ2月に撮影した写真を差がしてみた。

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写真は、高知県の大正森林軌道の軌道跡。2012年2月13日10時56分撮影。
今日の横浜と同じように、冷たい雨の降る日だった。雨の中を、傘を差して、カメラバッグを肩にかけ、首からカメラを下げて、軌道跡をだらだらと歩いた。1時間歩けば、出発点に戻るのに1時間かかるという気の重くなる道のりだったけれど、何かを見つけなければ、帰るに帰れない。

このカットが最後だったから、この写真を撮って引き返したということになり、この前日にガイドさんに教えられた駅の跡というのが、ここだったのかもしれない。
今、写真を見ていると、左手奥に見えるアーチ橋をじっくり狙うべきだったかなとも思うけれど、寒かったのは覚えているから、これが限界に近かったのだろう。それに11時前の撮影ということは、少なくとも、ここまで2時間は歩いてきている。すると、出発点に戻ったのは、午後1時過ぎか。

もう一つよく覚えていることは、中津川の集落にあった宿のオカミさんが愛想の良い人で、こんなに遠い所ではあるけれど、すぐにまた来たいと思わせてくれたことだった。

けれどもと言うべきか、やっぱりと言うべきか。
あれから4年経って、まだ再訪はしていない。生きてゆくのも、いろいろと難しい。


 先日、PCの代替えをしました。前のPCは、もう8年くらい使っていたもので、さすがに動作が不安定になっていました。新しいPCも代落ちではありますけれど、代換えで、操作性はがぜん良くなりました。

PCの引っ越しといえば、データの移し換えも大変な作業です。作業を進めるうちに、数年前に取材で伺った明延の鉱山跡の写真が出てきました。

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明延は、鉄道が好きな人であれば「一円電車」という愛称の方がピンと来ることでしょう。兵庫県の山の中、背後の山を越えれば、そこは鳥取県の若桜になるという所です。ここで採掘された鉱石の運搬のために軌道が敷設されていた時代があり、鉱山の職員とその家族は1円で乗車できたことから、この愛称が付きました。

明延には今も坑道の跡が残されていて、まとまった人数で希望すれば、その一部を見学することができます。坑道は地下に5層にも6層にも広がっていて、そこではスズが採れたのだそうです。そして、「まだ地下には相当量の鉱石が残っているのだ」と、これは取材で訪れた私を案内してくれたNさんの言葉です。この方は、遺稿の保存や、地域の活性化にも尽力なさっていて、私が訪問する前に、名前を聞いてネットで調べていたのでしょう。私の学生時代の専攻のことなどをご存じでした。

「採掘の終了は、輸入品からのコスト競争の結果だとは思うのですが、これからでも掘れば、なんだかの利益を得られるかもしれないのですね」と、私が問い返すと、Nさんは、
「いや。人間が高いコストをかけて地球をカラにする時代は、もう終わりましたよ」という返事。
「ほんの、この50年だけのことなのですけれどね」と返事をしたのですが、そのときのNさんの言葉が、今も忘れられないでいます。

Nさんは別れ際に、小さなバッチを下さいました。クマがツルハシを持っているというコミカルなもので、Nさんが先ほどまで自分の胸につけていたものです。
ここまで案内してくれた市役所のWさんが、「ああ。このバッチはね。スズで作った良いものなのですよ」と説明してくれました。

頂いたバッチはパソコンのモニターの脇に飾っておきました。一つしかないものを頂いたのですから。
そしてこれはもう1年前のことになるのですが、明延の写真を再使用する機会があり、その旨をWさんに電話しました。ひととおり、話が終わった後、Wさんが「Nさんが亡くなったんです」と、教えてくれました。心臓の発作であったようで、ヘリコプターで運ばれたけれども間に合わなかったのだとか。

我が家のパソコンは代替わりしましたが、バッチの位置は、元のままです。



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日本列島が南北に細長く、沖縄が梅雨入りした今でも、まだ北海道では花の季節…とはいえ、いささか季節外れの写真ですが、連休に出かけた山形で撮影した写真です。

JRの高畠駅から5kmほど離れた高畠町の中心部にある、旧・高畠駅跡での撮影。下に少しだけ写っているのが、ここで保存されている電車。ここは以前、雑誌の取材でも出かけた場所なのですが、この連休で、秋田と山形を回ったついでに立ち寄ってみました。その時の様子は旅行ガイドのサイト「たびねす」にもアップしましたので、よろしければご覧下さい。
http://guide.travel.co.jp/article/4005/

ここを訪れたのは、雑誌の取材から3年ぶりくらいのことでしょうか?
何も変わってはいませんでした。本当に不思議なくらいに。

今、地方を旅すると、たいがいの場合、急な変化に驚かされるものです。その中核となっているのは、たいがいの場合、巨大なショッピングセンターの誕生と、それに伴う駅前の過疎化であるわけですが、この高畠では、鉄道も、国道も少し離れたところを走っているからでしょうか。何も変わっていないように見えたのです。
それはもちろん、心をほっとさせてくれるものでした。


嬉しかったのは、保存車両も、駅の跡も、美しい状態が保たれていたことです。植物が伸びて、あたりを荒れ果てた風景に変えてしまうのは本当にあっという間ですから、やはりどなたかが手入れをしているのでしょう。
それであれば、その人に報いるために、何をしなければならないのだろう?
そんなことも心に浮かびました。


倉吉線の取材に出かけた日の夜は、この近くの関金温泉に泊まったはずだと、手持ちの写真を探したのですが、見つかりません。確かに数枚は撮ったはずと、携帯のライブラリーを遡ってみたら、確かに数カットが保存されていました。

seki01.jpg
これは宿からの眺め。桜の満開の季節であったことが、改めて解ります。



seki02.jpg
こちらはお馴染み、宿の夕食。これもまた、豪華です。


最近は、このような取材旅行を、可能な時は週末に入れるようにしています。週末は、急ぎ処理しなければならないメールが少なく、従って通信環境にこだわらずに、このようなのんびりした宿に泊まることができ、普段よりも少しばかり余計にリラックスできるから。

もっとも、取材旅行の時は、特に夜は、落ち着かないものなのです。色々と考え事をしたり、家を出る前に終わらせることができなかった仕事の続きをしたり、天気が悪い日は特に落ち着きません。取材を予定どおり進めて良いのか、あるいは何か、方向転換するべきなのか、そんなことにも迷い、夜中に目が覚めることもしばしば。でも、これは誰だって同じかもしれませんね。

仕事仲間には、取材旅行の時は、必ずクルマの中に寝ているという人も少なからずいます。旅館に泊まってしまうと、朝の始動が遅くなるというのが、いちばんの理由だといいます。それもよく解ります。

そんなことを考えながら、ここに掲載させて頂いた、上の写真の撮影時刻を見たら、朝の7時過ぎとあり、これならまあまあというところでしょうか。これがあまりに遅いようですと、気が急いて食事どころではなくなりますし、仕事は将棋倒しになるし、ブログにも発表できなくなるかもしれない。ここでも、早起きは三文よりは得が多いようです。

めでたしめでたし。



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倉吉線廃線跡巡りの旅を、もう少し、続けましょう。

かつての終点、山守駅の近くには、「関金町資料館」があります。写真はその館内。
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もとより小さな施設ですし、鉄道専門でもないのですが、これはこれで価値のある展示だと思います。それではこれが、どこの駅の時刻表なのか?区間列車の終着駅のものであることは間違いありませんから、そうすると関金駅のものです。それでは何年頃のものなのか?試しに昭和48年の時刻表を開いてみたところ、その頃は、展示されている時刻表よりももっと多くの列車が運転されていましたから、そうすると廃止間際のものということでしょう。倉吉線が廃止になったのは、昭和60年の春のことです。

時刻表に載っているこの運転本数が多いのか、少ないのか。印象はそれぞれでしょうが、鉄道に興味がある人であれば、思いのほか多いと、そう感じるかもしれません。朝の上り列車は4本。日中は1往復しか列車がなく、夕刻に2往復と、夜に2往復。

そんな運転本数に合わせて、地域の暮らしが動いていた。現代の閑散線区は、もっと運転本数が少なく、つまりは「クルマ任せ」にしてしまっているような気がします。クルマは確かに便利で、一度手に入れたら、もう手放すことはできないものなのでしょう。けれども、こういう時刻表に見入っていると、あの頃の暮らしの方が、満ち足りていたのではないか、そんな疑問も沸き、それをどうしても打ち消すことができなくなります。ところで、かたわらの柱時計も良いものですよね。デジタルものにはない存在感があります。

もう1枚。これは打吹駅跡近くにある、「倉吉線鉄道記念館」で屋外展示されているC11。
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見ての通り、疲れきっているのですが、私が撮影をしている間、かたわらに立っていた観光協会の職員さんが、居合わせた人と
「今年は予算がついたので、機関車のペンキを塗り直せるんです」
と、華やいだ声で話していました。

きっと今頃は、お色直しも済んだことでしょう。
春はまた巡り来る。




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先日の、当ブログでの倉吉線への記事に対して、メールにて、仕事仲間のTさんからコメントを頂きましたので、こちらで紹介させて頂きます。コメントありがとうございます。

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倉吉線、懐かしいです。打吹、関金、山守…関金までは客車列車も走っていました。
上井駅のころは、打吹が倉吉でしたね。つまり、街の中心は打吹周辺なのでしょう。
山守は何もない棒線駅でしたね。

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そう。昔の倉吉線は、そのようなローカル線でした。
今でも、打吹駅の周辺が、いちばん賑やかな一画となっています。

私自身は、現役時代の倉吉線は訪れておらず、そこに行けばC11が走っていることは知っていたのですが、伯備線や木次線に比べれば、探訪の「優先順位」は低い路線で、結局は行かず終いとなった路線でした。

今頃になって現地の廃線跡を訪れ、そのことが惜しかったようでもあり、それでも良かったのかなと思ったり、複雑です。そんな気持ちになれるのも、あの頃の私たちが、それほどに強く、鉄道に憧れ続けていたからだろうなと、そう思います。果たせなかった思いというのは、数えれば、本当にきりがないものです。
だからこそ、思い出の一つ一つがとても大切であること。
これは誰でも同じなのでしょうね。

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打吹駅の近くには、今も美しい街並みが残されています。



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倉吉線の廃線跡巡りを続けます。
この廃線跡は、路線の途中で二つに分かれる形となっていて、奥の方、昔の山守駅に近い側は、軌道敷が残されているのですが、倉吉駅(もっと昔は上井駅と呼ばれていました)の側は、廃線跡が、アスファルトで固められて、生活道路となっています。

昔、駅があったところは、写真のように小さな公園とされています。
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撮影の日付けを見ると、2012年4月17日とあり、ほぼ1年前のことですね。ちょうど桜の花の満開の時期で、仕事ではあっても、とてもゆったりとした気持ちになれたことを覚えています。

この公園を利用する子どもたちは、昔、ここに鉄道があったことを、どのように感じるのでしょうか。
現地を歩いていて、そのようなことも感じました。
私たちが子どもの頃、鉄道は成長する日本の象徴的存在でもありました。それこそ毎月のようにどこかで線路が延び、どこかで新しい車両が運転を始める。それは希望に満ちたニュースでした。

今の子どもたちは、そのような明るいニュースに接する機会が少なくなっているのではないかと、そんなふうにも感じます。
今は線路はなくなってしまったけれど、昔線路があった道に沿って、今も文化はつながっている。
線路の跡を保存したのであれば、次はそのようなことを、大人は子どもたちに伝えていかなければならないのでしょう。


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先日は、「鉄道遺産いま・むかし」で訪れた余部鉄橋の話をしましたので、やはり同じシリーズで訪れた山陰地方の記録から。

kurayosi01.jpg
倉吉線の廃線跡です。

この廃線跡も、現地の観光協会、あるいはボランティアスタッフによって、遊歩道として管理されており、ツアーの人数がまとまれば、今は使用されていないトンネルの中を歩いて抜けることもできます。

写真の区間は、遊歩道となっている区間のうちでも、もっとも印象的だった場所。まるでお寺の境内のような雰囲気ですが、実際に現場を歩いていても静かな場所で、歩いてゆくうちに、ずいぶんと心が落ち着いていったことを覚えています。

廃線跡を遊歩道としているところは、全国に結構な数があるのですが、軌道敷をアスファルトなどで固めているところが多い。やはりそちらの方が歩きやすいですし、何より保守が楽なのですね。

けれども、踏み固められた土の上を歩いてみると、人が歩くのにもっとも適しているのは、そのような道であることが解る。土の上からアスファルトの上に戻ると、それがあまりにも硬いものに感じられるのです。

倉吉線の線路はなくなってしまいましたが、今は新しい姿の道となって訪れる人を迎えてくれる。素晴らしい財産です。取材に立ち会って下さった現地の観光協会の女性は、「今月はまだ一日も休んでいません」と、笑っていました。このような環境を守ってくれている現地の人に、改めて感謝、です。



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先に紹介させて頂いた交通新聞社発行のムック「鉄道遺産いま・むかし」では、4年間にわたり、ムックに収録されなかったものも含めて、全国48箇所の鉄道遺産を取材させて頂きました。これから、少しずつ、その時の思い出話も書いていこうと思います。

どれも仕事で出かけたのですから、「行けて楽しかった」などと言うことはできませんが、それでも、何やら思い出深いところ、急ぎ足で通り過ぎてしまったところなど、少しずつの差はあるものです。

思い出深かったものの一つが、山陰本線の余部鉄橋です。

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この写真を撮影したのは、2009年の夏のことで、鉄橋架け替えの工事が始まっており、フェンス、網などが邪魔に見えて仕方なかったのですが、今では良い思い出ですね。2泊3日の行程でレンタカーを借り、鉄橋からそう遠くないところにある民宿に連泊となりました。連泊のお客様というのは、宿の側でも食事に工夫が必要なようですが、2日めの夕食に、少しだけでしたが、カニが出ました。
それでも、翌朝になって宿の人に話を訊くと、カニも水揚げ量が減っているのだそうです。何よりも漁船の数が減っているのだとか。みな、歳を取り、少しずつ海に出なくなる。「一隻減り、二隻減り」という状態なのだそうです。北朝鮮から渡って来たカニというのもあるのですが、それは色が悪いので、見た瞬間に解るのだとか。

その話を伺った時は、「また密輸か。仕方ないなあ」というのが率直な感想だったのですが、今は、カニまでもが貧しい北の海が、何だかとても悲しいものであるような気もしています。もっとも、実情を何も知らずに、勝手に感傷に浸るのも良いことではないのでしょうが。

伯備線が電化されて以降、京都を経由する山陰本線は、すっかり裏街道の様相となってしまい、事実、余部鉄橋の写真を撮っていても、特急がほとんどやって来ないことは残念でした。
そんな余部鉄橋であっても、橋の下にはバスやクルマでやって来た観光客の姿が消えることはなく、自動車で現地に来るのに、鉄道の施設を見学するのだなあと、不思議な気持ちにもなったものです。
同じような風景は、九州肥薩線の嘉例川駅の駅舎であるとか、奥羽本線の峠駅などでも目撃しました。
本当に不思議な時代だと思います。


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