雨に降られ、諸々締切も迫っているので外出もしていないので、また本の話を。「鉄道のての字」もありませんが。
 この本も「名著」と呼ばれている一冊。嵐山光三郎さんが「料理のお稽古」を書いた時に、この本を意識したと、どこかに書いていた気がする。内容はもちろん、料理の指南書であるのだけれど、何度読んでも、また読みたくなるのだから、ただの料理指南ではなく、文芸書でもあるのだろう。何しろ、この人にかかると、夏のソーメンが、あるいは、ただ醤油で2~3時間煮ただけの豚バラ肉が、あるいは、小麦粉でドロリと仕上げた日本風のカレーが、古今東西のあらゆる料理と肩を並べる一皿となってしまうのだから、素晴らしい。
 例えば焼いた牛肉に、ワインをふりかけ、スライスしたレモンとバターを載せて食べるという、その手順が同じであっても、どの言葉を用いてそれを語るかで、想像される味はいかようにも変わってしまう。つまり、書き手にとって、語彙が必須の資質であることは言うまでもないのだが、それと同等かそれ以上に、生き様が大切なのだと、そう思わされてしまうというわけ。
 生き様をすぐに変えることはできないけれど、いろいろな本を読まないと、自分が偉くなってしまっていけない。で、ソーメンを美味しく食べる方法も学べるわけだから、良い本なのであります。

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これも先日の岡田喜秋さんの本に続いて、アマゾンで思わず購入してしまった本、といっても、1円+配送料という奴だけれど。
 月刊「旅」の最終号。JTBで立ち行かなくなり、新潮社が本の名前を買って再スタートさせたものの、やっぱり立ち行かなくなってギブアップ宣言をした最終号です。
 新潮社にブランドが移ったとき、ずいぶん軟派な雑誌になってしまった気がしたのだけれど(なにしろ、岡田編集長時代の「旅」は文字だらけの硬派な本だったから)、今こうして見直してみると、なかなかどうして、結構、突っ張っている。文章ももちろん、掲載されている写真は相当なクオリティで、これだけのものが、あのみすぼらしい「○○まとめ」などのネット情報に負けたというのであれば、それはもう本当に読者が悪い、読者が馬△なのだと思うわけだが、皆が揃いも揃って馬△になってしまうと、それはもう馬△とは言えず、平均的読者となってしまうのだから、笑うに笑えない。あ、本を買わない人たちなのだから、読者じゃないか。
 惜しむらくは、この本にはもっと広告があって良かったし、中高年の読者を固定読者として惹きつける、硬派な記事(現代も残る平家の赤旗の研究とかね)が2本くらいあっても良かった。まあ、それだけでも部数は増えないかもしれないけれど。
 自分がライター稼業を始めて、初めて「旅」に記事が載った時は嬉しかった。JTB時代に最後に記事が載った時は、同じ号に岡田喜秋さんの執筆記事も掲載されていて、それも凄く嬉しかったのを覚えている。
 私もネット記事は書いていて、それはそれで人の縁だから大事にするつもりだけれど、「旅」に記事が載った時の気持ちはずっと忘れず、ボロは着てても(洒落にならないが)、心は硬派、あの日のママよと行きたい。

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 Amazonで岡田喜秋さんの古い紀行文集を見つけ、少し高かったのだけれど、購入してしまった。
全国のローカル線をテーマにした一冊で、発行は昭和31年5月。つまり、まだ東海道本線が全線電化前のこと。私も生まれていない。そんな時代に(日本全部がローカル線のようなものだ)、八高線や、水郡線、姫新線などが湛える旅情に着目しているところは、流石だなと思う。岡田さんにしても、まだ名作「日本の秘境」の取材がようやく始まった頃の発行であり、今日では通用しない表現(自分が住まっていない場所を「○○のチベット」と呼ぶ、などね)もあるけれど、良いところ、物足りないところ含めて、学ばされることは多い。
 飯田線沿線の水窪について、かつては宿場町として賑わっていたけれど、鉄道が開通してからむしろさびれたというような指摘は、こちらとしては虚を衝かれた感があり、つまり、鉄道系で物を書いている人間が、1067mmだとか、昭和43年だとか、そういうデータ的なことにばかり気持ちを回し過ぎ、もっと大切なことを観察し忘れてしまったというのもあるのだろうと思う。もちろん、それが趣味の延長であるだけなら、何も問題はないのだけれど。
 ポイントを切り替えてみれば、また違う所に行けるに違いない。

この3週間くらいの間に、椎名誠さんと谷崎潤一郎、中島梓、辻静雄、景山民夫の5名の作品を色々と同時に読み、その中でいちばん快い読後感があったのが、辻静雄の作品だった。
 で、次にはアマゾンで5~6冊を同時購入。アマゾンにおける中古書籍のあまりにも安い価格相場は私たち出版人を苦しめること大なのだが、こういう当てずっぽうの読書の時には助かる。
 辻静雄の作品の中で、目下、印象的だったのが、この「フランス料理の手帖」で、単に一流の料理、料理人の紹介に留まらず、そこからきちんと文化論へと導いている(それはもちろん、辻作品共通の魅力ではあるが)。この人、元々はフランス料理研究家でも、料理学校の校長でもなく、新聞記者だったのだから言葉選びが正確なのは当たり前と言えば当たり前だけれど、新聞記者の書いた文章すべてに感銘を受けるわけではないから、やはり人として一流なのだと、その結論に行き着く。
 そして、一流と言われたフランスの料理人たちの言葉を随所で紹介し、
「創造的な仕事をなした人は、その仕事を次の世代に教えることが義務である」とか、
「たとえ、料理のことが書いていなくとも、文芸書をたくさん読め。なぜならそれは、人が人のことを書いたものだから」とか、
「料理の世界に携わっているのではない人とたくさん会うこと。なぜなら、料理をしている人とは、これからもたくさん会えるのだから」とか、
「例えば三十年その仕事を続けてきた料理人がいたとして、その人が三十年の間、進歩を続けているとは限らない。三十年間、同じところで停滞していることもある得る」など、
その一字一句は忘れたけれど、そういう旨のことが至るところに書かれていて、この「料理」の部分を「鉄道」にでも「写真」にでも、何にでも変えてみれば、自分たちにとって、まことに身につまされる一言、鮮やかな警句となる。
思わぬ言葉を目の当たりにして思わず立ち上がり、しかし、だからといって何もできないのは凡人の常なのだが、けれども立たないよりは何倍も良い。必要とされるのは積み重ね。「ダルマは9年」である。何事も。これからでも。

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辻静雄の本を読んだ次の日には、まるで反対のベクトルを掲げた本を読んでいる(まだ読み終わっていないけれど)。

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 中島梓。まだこの著者が生前の頃、エッセイを読んで、凄いな~と思った。その怒濤の破壊力に、である。そしてこの歳になって、違う本を読んで感じたのは、やっぱり、凄いな~である。
 この本、何も美食を否定しているわけではない。本の冒頭には「あなたは本当においしいと思って食べているわけ?」というセンテンスもあって、つまり、虚飾に疑問を呈しているのである(だから、違うベクトルというより、違うアプローチといわなければいけないのかもしれない)。実際に彼女は、美食にこだわることは受けづけず、中学、高校の各3年間、毎日ひたすら「ササミ弁当」を食べ続けたといい、それ以外は受け付けなかったといい、では「栄光の」という枕詞さえ付く「ササミ弁当」とは何かというと、ササミに塩、コショーと粉をつけて焼いたのに、ホーレン草のバター炒めと、目玉焼き、梅干しが1個、ご飯は冷えたもの、それだけで構成された弁当なのだという。この弁当のおかずをどう食べるかも順番が決まっていて、いちいち書き写すのが面倒なのでやらないけれど、とにかく、ひと口分残ったササミを食べて食事が終わると、そう決まっている。なのだそうである。
 同じ弁当を6年間食べ続けることを何と形容すべきか?「情念」では足りない。「怨念」でも、6年間持つかどうか?もっと根源的な何かに支配されている気がする。あまり豊かとは言えない食べ物に固執する例には、土屋賢二さん(元・御茶ノ水女子大の学部長だ)の「フィッシュフライ弁当」があるが、「栄光のササミ弁当」には負けている。この中で中島はホーレン草のバター炒めを、「たのきんの野村君、ビートルズのジョージ・ハリスンというパート」と称し、そもそもたのきんって何だっけ?という今日ではあるが、まあ、主役ではないのだろうな、という感触はある。
 で、だ。
 このような「栄光のササミ弁当」と題する、何やら怨念めいた文章が、なんかこう早口で、どろどろどろどろ~っと11編続いただけで、文庫本1冊が埋まっているのである。本の真ん中に「旅のガイドコーナー」や、「MEMO欄」などなく、どろどろどろどろ~っで、1冊だから、つまり凄い。
 何故、今頃、中島梓の本を読み始めたかというと、半村良のことを調べていて(なぜ調べ始めたのかは、自分でももう解らない)、『太陽の世界』という半村の絶筆ともなった壮大な小説に関する記述があり(ウィキに、だったと思う)、「これを書き継げる人間が居るとすれば、栗本薫(つまり、中島梓だ)だろう」、と、そんなクダリを読んで、凄さを思い出したからだった。
 しかし、中島といい、杉浦日向子といい、凄い人は短命だ。私も頑張って凄い人にならなければいけないのだが、今から短命にはなれない。
 ところで、この本の後記には
「作家などというものは、基本的にヒマ人なのである。ただ忙しい忙しいと自分で叫んでいるだけのことである」という旨が書いてあって、これ、本当だと思うよ。





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 ずいぶん前にアマゾンで古本を発注して、読まないままでいた本。辻料理学校を主宰した辻静雄さんの著作で、ほぼ1週間だかのヨーロッパ旅行を中心にまとめた食の紀行文。
 やはり、一流と言われる人は命がけで勉強しているのだなということを痛感させられる。なぜ、この人はここまで、フランスの一流レストランのメニューの、何が美味しく、何が日本人の口に合わないかを、ここまで熟知しているのか。それもパリだけでなく、片田舎のレストランまで。フランスだけでなく、イタリアや、ドイツや、ベネルクスの小さな国のレストランまで…。それはもう通い続けたから、という答えしか見つからないのだが。
 それから、辻静雄の著作のすべてについて言える魅力は、書き手として当たり前のことなのだけれど、語彙が豊富で、色彩感に溢れた言葉で料理が紹介されていること。

 ああ、自分も、ここまで料理に精通できたらと思う。
 これに比べ、ネットの「○○まとめ」記事のくだらないことと言ったら…。
 まだまだ、勉強のし直しだー。


『洋酒天国』第25号。奥付を見ると(虫メガネの力を借りなければいけないのだけれどサ)、昭和33年5月発行とあるから、私はまだ1歳7ヵ月。鉄道の世界に目を転ずるのであれば、まだ東京~神戸間に特急「こだま」も運転されていない、そんな時代に出された本である。
 この雑誌は、寿屋(現在のサントリー)が、PR誌としてトリスバーなどに置いた。発行部数2万部から始まって、最盛期には20万部に達したと、これはウィキに書かれていたことだけれど、その数の伸びは凄まじい。
 ところで、なぜ、今頃この本を出したかというと、先般、ある記者発表の席で、『洋酒天国』でも撮影をしていた大先輩のP氏に会い、この時の話を伺うことができたからなのである。印象的だったのが、
「あの本は開高健さんだけがやったように言われているけれど、山口瞳さんの力も大きかったんだ。誌面に著名人が多く登場したのも、山口さんの力によるところが大きかった」という言葉。
 長年の疑問が氷解した気がした。確かにこの25号でも、吉田健一さんなどの著名人が登場しているけれど、まだ芥川賞受賞前の開高健に、そこまでの人脈があったとも思えなかったから。で、登場する人はみな飲み仲間であったとすれば、これは現代まで引き継がれた「よくある話」ということになるのだが。
 それにしても、総ページ数36ページのこの小冊子には、ウィット、ユーモア、エスプリが散りばめられていて、21世紀の読者までが十分に楽しむことができる。こういう、何と出会うか解らない、怖いような魅力を秘めているのが、雑誌本来の姿なのだと思う。でも、最近は、そんな魅力を感じる雑誌が…。
少なくなったなあ。

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『のんびりとした地勢に耕地と耕地の続いたぐあいは見たばかりでもここちがよい。土の色の感じも柔らかい。山の上の麦畑なぞは深い雪にうずもれているころに、ここには残雪のかたまりすらなく、麦の芽の豊かにのびて青々としたのを見るのも楽しい。信州あたりの耕地に比べると、まるで庭園のような気がする。野に出て麦の芽を踏んでいる人たちまで農夫とは思えない。園丁だ。春先降る雨の暖かさも思いやられる。信州にいるころ、たまにあの山の上から降りて来て見ると、
「ああ柔らかい雨が降るなあ。」
私はそう思い思いしては寒い国の方へ引っ返していった。』

 長い引用ですみません。優しい文章です。描写されているのは、現在の中央線の中野から先(つまり下り寄り)の風景。記したのは島崎藤村で、1913(大正2)年に発表された「甲武線」という文章の中の一節。私鉄の甲武鉄道は明治末期に国有化されるわけですが、まだこの頃には「甲武線」という呼び名が普通に使われていたのでしょうね。
 こんな「田舎」に住めるなら、住みたいものです。


いま、私の手元に時代の先端をゆく漫画『ねことじいちゃん』がある。ねこまきという、実に脱力な著者名は置いておいて、この漫画もネコという、どうせ大したことは考えていないはずの動物に振り回される人々の、ささやかな幸せが描かれている。
 舞台はネコがたくさんいる、とある島。主人公の一人である大吉じいちゃんは名古屋訛りの言葉を話すので、三河地方かどこかの島が舞台ということになるのだが、なに、描かれる風景は、日本の小島の普遍的なものだから、読み手が勝手に想像すればヨイ。
 登場するのはたくさんのネコと、それから島に住む高齢者がほとんどで、でも、皆ささやかに幸せそうに見える。つまり、閉塞感だらけの日本も、こうして高齢者が自立し、若者が高齢者をリスペクトして社会が回転すれば、目をそむけずにすむコミュニティが成立するのではないか?と、あざとい読者はそこにヒントを見出そうとするわけだが、なあに、ネコはそんな難しいことに関心なんかない。
 じいちゃんが、先立たれた妻のことを思い、ネコが来てからは絶えなかった夫婦喧嘩がなくなったと、ネコに向かって「うちに来てくれてありがとうなぁ」と呟く。それだけで、一つの物語が出来上がってしまうのだ。
 で、ネコは相変わらず膝の上で丸くなり、ときどき「ぶに~」などと啼いてみせるだけなのだが、なぜか、ちゃんと主役が務まるところが、巡り合わせの妙、である。

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本日の古書店巡り(と言っても2軒だけだけれど)の戦利品。
“102歳のカメラマン”と形容されるようになった、カメラマンの大先輩、笹本恒子さんの自伝。ヤフオクなど見ても、笹本さんの本はかなりお歳を召された後のものばかりが出ているのだけれど、この本は笹本さんが第一線でバリバリ動きまくっていた時代の記録。
でも。
本の最後のところが、結構いいんだ。飛び飛びで少し抜粋すると、
「六〇年安保の後、雑誌が相次いで廃刊されたのは、大きな打撃だった」
「間断なく仕事に恵まれてきた私には、新しいマーケット開拓への見当がつかない」
「過当競争は激しくなる一方」
「仕事のない日が続いた」
 こうして笹本さんは、半ば仕方なく、空いた時間を活かすために、文章を書き始める。けれども、
「原稿を書き進めているうちに、私はそうはしていられないことに気づいた」
 早く確実な収入を得なければ、生活が賄えないことに気づいたのだという。
 こうして、これもやむなく笹本さんは副業を始める。オーダー服のサロンを開き、あるいはフラワーデザインを手がけ、笹本さんが写真の世界に戻ったのは、それからずいぶん後のことで、それまでの間に、ネガをハサミで切り、焼却炉に送ってしまったこともあったという。その作業を続けなかったのは、ネガの量の多さに、作業を続けるのが億劫になったからなのだと言う。
 笹本さんがバリバリ働いていたのは昭和中期だから、今ほどの不況ではないはずだけれど(不況期があっても、比較的短い間のうちに回復したのではないだろうか)、それでもフリーのカメラマンは、今日と同じような苦境に苦しめられていたことになる。
 色々なことを書ける。「苦しみのない人生なんて、なんの味わいもない」とか、「あの大先輩の笹本さんだって、これだけ苦しんだのだから」とか。
 「ただ一度の人生なら、気が済むようにやろう。逆境を楽しもう」でもいい。これは本当に人それぞれ。
 それからこれは本論ではないけれど「ヤフオクとアマゾンと、ブックオフばかりに頼らない方がいいよ」ということも、私は結構強く言いたいなあ。
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 ちょっと長くなりますが、ある小説家が書いたエッセイの一部を書き写します。誰が書いたか、当ててみて下さい。もちろん、読んだことがある人であれば、間違えることはないでしょうが。(改行の後は、見やすくするため、池口が1行空けました)

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(前略)

 ぐっすり眠って目がさめると、朝。列車は瀬戸内海のそばを走っており、車窓には静かな海、美しい島々、帆をかけた小舟などがながめられた。他の乗客たちは別に知己ではないが、一夜を共に同じ車内ですごしたという意識のためか、眠い顔を見せあったためか、肩をたたきあいたいような気分。人数があまり多くないのもいい。

 これこそ旅だ、列車の楽しさだ、と思った。福岡の仕事は面白いものでなく、なんにも覚えていないが、寝台車についてはいまだに印象に残っている。こんどの夏には熊本へ行く予定だが、またこの寝台車で行くつもりだ。旅の本質は産業からレジャーへと変わりつつある。ビジネス旅行から楽しみの旅へと。人びとの目的が移るのである。この寝台車のムードは、今後ますます貴重さを示すだろう。廃止されては悲しいのだ。

 費用をきりつめ団体を作り、目的地へさっさと行ってさっさと戻る旅行の好きな人もいるだろう。ただ私のように、道中を楽しみたい人もあるのである。趣味や娯楽は、能率や画一化とは完全に別方向のものだ。寝台車は採算がとれないというのなら、引き合うだけの料金を喜んで払う。楽しみを求めて、競馬やバーやゴルフに、せっせと働いて得た金を使う人がある。寝台車をその対象とする人だってあるはずだし、現に私のごとく存在するのだから。

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さて、正解は…

星新一さんです。SFのショートショートを多数発表した作家ですが、ごらんのとおり、エッセイも堅実ですし、このほか、歴史上の出来事を題材とした小説にも迫力があります。やはり、という感じです。エッセイのタイトルは「寝台車」というもので、収録されている文庫本(きまぐれ博物誌 新潮文庫)のあとがきには、昭和43年から45年の間に書いたもの、と説明されています。つまり、ここに登場する寝台車とは、国鉄がまだ輸送の王者に君臨していた時代のものということになります。それでも「廃止されては悲しいのだ」という記述がありますから、その頃に、そういう動きが何か始まっていたのでしょう。

ただ、寝台車の魅力というのは、ここに書かれているとおりで、昔も今も何も変わってはいません。
「寝台車をその対象とする人」も、すjっかり市民権を得た印象ですし、「引き合うだけの料金」で、列車が動くことはもうないのでしょうか。
豪華列車ではなく、誰もがいつでも乗れる寝台列車が、全国の幹線に数本は残されても良いはずです。
それは文化の保存であるとか、理由はいくらでも見つけられるはずです。


田山花袋の「温泉めぐり」を読んでいます。箱根の塔ノ沢が出て来て、伊香保が出て来てという具合に、今も名が知れている温泉が出て来て、そこに出向いて、酒を飲んだり、芸者さんの弾く三味線を聞いたりしているのだけれど、でも、とてつもなく淋しい紀行文。

さすがに文体が少し古く、馴れない読み手の足取りを弱めさせるのだけれど、雨が降り出す前の夕暮れの風のような、ひとりぼっちの夜のすきま風のような、やりきれない淋しさを読み取るくらいのことはできる。

こういう著作まで目を通していないと、内田百閒の紀行文の位置づけはできないということになる。

またも、目の前に、暗闇、か。



今日,向田邦子のエッセイを読んでいたら『ヒコーキ』という一編があって,『飛行機』でも,『航空機』でもない。このネーミングで,私が真っ先に思い出したのは,行軍将棋(軍人将棋とも)であった。このゲームでヒコーキはまったく強く,少将以上にしか負けない。タンクにも勝ち,このあたりは近代戦の色合いが感じられ,しかもヒコーキは自陣から自由に敵陣に飛翔できるというアドバンテージがあった。

これは結構手こずる性質のもので,対応に苦慮すると,自らのヒコーキをこれにぶつけて相撃ちとすることで,敵のヒコーキを除去のだが,得策とは言えなかった。このヒコーキを用いた一種独創的な運用法を考案したのは,高校のクラスメートの菊池君で,自陣から敵陣に向けて,ヒコーキが普通に歩いてゆくのである。これだと,相手はまさかこれがヒコーキだとは思わないのだが,この戦法の強みは,万一敵の地雷を踏んでも,これを除去できることにあった。敵のある程度強い兵がまんまと地雷を踏んだはずなのに,地雷が負けてしまうのである。その理由に気づかされるのには,一瞬の間が必要で,いずれ地雷を踏むだろうからと,自軍の少将以上がその近くにいないと,いよいよ対応に苦慮されられることになる。

これに勝る方法には,地雷が敵陣に歩いてゆくというのがあり,これは相当のものを撃破できるのだが,審判がグルになっていなければならず,基本的には反則である。

きょうは,半藤一利さんの太平洋戦争ものを2冊読んだ後に,向田邦子に移ったからこのような思考に陥ってしまったのだが,エッセイがあまり波長に合わなかったものだから,吉村昭の,江戸末期の天然痘治療をテーマにした中編に切り替え,これにはヒコーキも,タンクも,地雷も,少将も出て来なかった。
当たり前である。

ここのところ、少しばかり続けて読んでいるものに山田風太郎の小説、エッセイがあるのですが、今日はこんな文章に出会いました。
ちくま文庫「山田風太郎明治小説全集一」に収録されている『開花写真鬼図』の中の一節です。物語の冒頭で登場人物の一人(主人公ではない。この小説のシリーズは、主人公らしい主人公はいなくて、それが物語を微妙なバランスに仕上げている。強いていうなら油戸という少し間の抜けた巡査なのだが、小説の主人公たる心理描写は乏しい)が、新橋から完成したばかりの汽車に乗るシーンがあり、「乗車セムト欲スル者ハ遅クトモ表示の時計ヨリ十五分前ニステイションニ来タリ,切手買レ其他手都合ヲナスベシ」で始まる駅の告知を見て、憤慨し、「この告知も気にくわない。内容がではなく、文章がである。これは従来の日本の文章ではなく、どこかに紅毛臭がある」と,記されています。

もちろん、どこかに紅毛臭がある、とするのは山田風太郎の眼によるものです。この文章は、恐らくは当時の鉄道技術、運行を司っていたイギリス人による英語の文章を、そのまま日本語に訳したものであるはずです。何より、日本に鉄道が開業した時点では、日本の社会はまだ太陰暦を採用しており、15分という時間の概念は一般的な日本人には無縁のものでした。
当然、まだ洋式の時計も普及しておらず(イギリス人は本国から懐中時計を携行していた)、そのような社会にあって、庶民に「15分前に駅に来い」ということが、いかに意味のないものであったかは、同じ日本人であれば、痛いほど解っていたはずです。当時の庶民がいかにして、列車の発車15分前に駅に到着する術を手にしたのか。これは私が数年前に鉄道時計の歴史の本を書いた時に調べたことがあるのですが、はっきりと解らないままでした。

また、山田風太郎の汽車の描写には、「まあ、西部劇に出てくるようなやつを想像していただいた方がてっとり早い」とあります。こう書いた理由を想像すると、作者は明治の蒸気機関車について調べ、北海道の「弁慶号」「義経号」の写真に辿り着いたのでしょう。でも、鉄道が好きな人にはよく知られているように、あのアメリカンスタイルの機関車が、明治初頭に運転されていたのは北海道だけで、本州の機関車は、それよりも小型で繊細な姿をしたイギリス製のものだけでした。

もちろん、だからこの小説が間違っているというのではなく、むしろよく調べたことと思います。ただ、最近は読者のツッコミが厳しくなっていますから、このようなことを書いたら、まず間違いなく、発売翌日の版元に、読者からの質問という電話がかかります。

私が、鉄道時計の本を書いていて、とても心残りだったのが、明治5年12月(新橋~横浜間に鉄道が開業した後です)に、ようやく太陽暦が採用されて、庶民にも1日24時間の概念が導入され、それがどのような過程を経て、社会に浸透していったのかを、十分に調べることができなかったことでした。最初はチンプンカンプンであったはずの西洋式の時間が、いつ頃から誰にとっても当たり前のものとなったのか?私が読んだ本の中には、その過程を「よくわからない」と記したものがあって、それは正直なところなのだろうな,とも思いましたが。

西洋式の時間が採り入れられる前は、日本人の時間の概念は非常にルーズで、待ち合わせに2時間遅刻することなど日常茶飯事であったといいます。また、時間に遅刻するという概念が生まれたのも、時間の制度が変更された後のことだ、とあり、この部分だけは、少し羨ましく思ったり…。

腕時計を普及させたものの一つが、戦闘機のパイロットの存在だったのだそうです。編隊を組む全員がきちんと時間を守れなければ作戦行動が取れないからだとか。時間が厳守されてこそ、一人の人間が多くの仕事ができるということ、これは間違いがないようですね。

またまた、鉄道の話とは離れてしまいますが、最近入手した絵本です。ネット経由で、もちろん中古のもの。奥付を見ると、1991年初版とあります。

可愛らしいオバケを主人公にしたお話。ちょっと可哀想な筋書きになっていて、こういうものを読みますと、童話というのは、気持ちが優しい人向けのものだということが解る気持ちになります。あくまでも童話ですから、しかも主人公のオバケがカレーを作る話ですから、このような話はどこにもなかったわけですが、でも、何となく、心がしんみりする。

いつもながら、自分もこういうストーリーを作ってみたいという、それが読後感の一つなのですが、さて。

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出先にブックオフがあったので、立ち寄ってみた。山田風太郎のエッセイがないか探したのだけれど、ない。忍法帖のシリーズが数冊あるだけで、食指が動かなかったものだから、林芙美子の随筆集を買う。

読んでみると、大したことはない。あれだけの文筆家が書いたものを、私がこう言うのも気が引けはするのだが、解説にも「小説の合間の随筆には、内的な使命はなかった」ということが書かれてあって、納得もしたし、この読み手の確かさにも、感心させられる。

道は、まだ、遠いのだろうなあ。
だから、歩き甲斐があるのだと、思おう。

また、ネコの絵本に話を戻しますと、クロとトラのシリーズの絵本にもう一冊ありまして、これがその本。
主役は、やっぱりトラ君です。

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なかよく縄跳びをしていた2人(本の中では、最後にトラ君が「3人で」と言っていて、「3匹で」、ではないので、ここでも2人と書きます)、が、ちょっとした行き違いから、仲違いしてしまう。で、少しネタバレをしてしまうと、トラ君が、降り始めた雨の中を、ひとりぼっちで、いつまでも縄跳びを続けることになるという展開です。
他の2作では、少し腕白な所もあるトラ君ですが、なんだかすごく可哀想。

そういえば、私たちも、子供の頃は、こんな行き違いをしょっちゅうやっていたような気がします。皆で遊ぶつもりで家を出たのに、一人で先に帰ってきてしまうとか…。
そういう意味では、この絵本のテイストも、なんだか大人向けです。そして、ちょっぴりのハッピーエンド。

子供の頃は、こんなハッピーエンドにもたくさん出会っていたような気がします。
大人になってしまうと…。なかなかうまくいきませんよね。

頑張ろう…。


こちらは、絵本ではないのですが、ネットオークションで入手した本。
今はなくなってしまった、プレス・アイゼンバーン発行の「木曽森林鉄道」という写真集です。

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かつて、木曽の山中に路線を延ばし、木材の搬出に働いた軽便鉄道がテーマ。実物は、もう廃止されてしまいましたが、鉄道が好きな者にとっては憧れの鉄道でした。廃止されたのは、私が高校生の時で、行きたくても行けなかった。
だから、その鉄道を160ページというボリュームでまとめてくれたこの本も、憧れの本だったのですが、発行部数が少なく、入手しようにも高価な一冊となってしまっていたのです。

そんな本を今回入手できたのは、以前に、一度週刊現代に載せて頂いた写真が、もう一回掲載になって、臨時収入があった。その直後にネットオークションに、長い間、欲しかった本が出品されたので、これはもう落札しようと。しなければいけないと(笑)。実にすごいタイミングでした。

本は、1975年の発売で、初版がたしか1500部の発行。当時の販売価格が4500円でしたので、今回は1万円ちょっとでの落札でしrたが、決して高くはないはずです。

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その中の1ページ。木曽森林鉄道を走っていた「理髪者」が紹介されているページです。下の2枚がそれで、左の写真が室内。写真の一部が切れてしまいましたけれど、奥に散髪のためのイスが見えます。

文字通り、車内が床屋になっていて、機関車に引かれて走り、あちこちで散髪をする。山に籠もっていて、なかなか町に出られない人のためのサービスとして生まれた車で、龍角散のテレビCMに出たことで、一躍有名になりました。
私にとって、機関車以上に、憧れの強かった車両です。
もちろん、今はもうなくなってしまいましたが、こうやって写真で見ることができるだけでも、凄いことだと思います。

やっとのことで本を入手できて、これでもううなされなくて済むと、ほっとしたのですが、本を眺めていると、今度は、現地に行きたくなって困ります。もう鉄道は廃止されて久しく、この風景には出会えないわけですが、それでも現地に行きたくなる。一難去って、また一難です。

先にアップした絵本「やこうれっしゃ」の中に出て来る1シーンです(部分を拡大しています)。

皆、辛そうに寝ている。でも、若者は駅弁を食べながら談笑している。そんな、観察の細かい絵が、ずっと続いています。
今は、こんな列車も、ほとんどすべてなくなってしまいました。

やこうれっしゃ20


やこうれっしゃ

これも、最近、中古で購入した絵本です。
鉄道が好きな人なら、この絵本は結構、気になったのではないかと思います。表紙は紛れもなくEF58+10系。本の中には金沢―上野とサブタイトルが記されているから、登場している列車は、急行「能登」。今は廃止されてしまった列車です。
本の中に、説明文は何もなく、ただ、夜行列車が、上野から金沢に向けて走る姿が、ページごとに、客車をカットボディのスタイルで描き、車内で過ごす乗客の姿が描かれているだけ。

ページが進むと、時間が経過し、談笑をしていた人たちが眠り始める。座席車で眠る人たちは、ちょっと辛そう。でも、今は、こんな旅もなかなかできないですよね。
夜が明ける頃には、客車の下回りには、雪がこびりついています。上野を出る時には着いていなかったもので、こんな書き分けも楽しいところ。

金沢駅でホームに降りたお客さんの口からは、息が白く出ています。駅構内に赤電話があるのも懐かしい。
一冊の中に、色々な発見があり、鉄道を好きになって良かったと思うのは、実は、こんな時なのかなとも思いました。