本日(24日)は日本写真家協会のオフィスで編集作業でした。この仕事は、もちろん、ほぼほぼボランティアなのですが、でも、勉強にはなると感じています。
作業中にフェイスブックの友人であり、写真の仕事では先輩である方から「九州にいつ行ったの?」と質問が。
「ああ。あれは私が高校時代の話です」
「なんだあ。俺、門司港の博物館に行ったことがあるよ。レンガの建物の」
「あれは建物自身が文化財なんです。明治時代に九州に鉄道を敷いた私鉄の本社だった建物」
「ふーん」
なんて会話があったわけですが、ここの副館長さんが大変な趣味者であり、鉄道に対する定見をお持ちであると、これは鉄道が好きな人には、つとに有名。今日の、写真の先輩との会話ではそこまで説明できませんでしたが、写真の建物がそれ。九州鉄道記念館です。
なにしろ、ここの保存車両はピカピカに磨きあげられている。副館長さんに伺った話では、毎日、2時間かけ、昔は藁で磨いたけれども、今は入手が難しいので、柔らかい金属たわしを使っているのだと。印象的だったお言葉が
「砲金製のナンバープレートの色は金色ではない。磨いてゆくと白金のような色になる」
というのと、
「よくお客さんから『きれいですね。この車は本当は動くんでしょ?』と聞かれます。そこで『はい。動きます。夜の間は自由に走りに行って、でも朝になると、元の場所に帰ってきています』と答えています」
というもの。いえ、他にも素晴らしい言葉は幾つも教えて頂いているのですが、とにかく、この記念館に行くと、車両がきれいであることを、それが自分の手柄であるような気持ちになれます。
本当に、出会いというのは、財産、宝物ですね。

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お昼過ぎから雨が降り始めました。2~3日前に、関東も梅雨明け宣言が出たようですが、本当はまだ明けていない気がします。風が冷たいし、セミもほとんど啼いていません。
梅雨明けという言葉には開放感があって、きっと誰もが望んでいるものだから、気象庁としても出したいのが人情なのかもしれません。あんまり出さないでいると、どこからかクレームが来たりして。「こっちは生活がかかってるんだ」なんてね。
個人的には、梅雨はきらいじゃないんです。雨の風景もきれいだと、歳を取るごとに思えるようになって来ました。
(気をつけて下さいね。この「歳を取ると」というのは、おまいら解らんだろーという隠れミノですからね)



夜行急行「かいもん」に乗って、次の朝どこに行ったのか?何故だろう、ここから急に記憶が曖昧になってしまっています。
恐らくは南宮崎に、「大淀川を渡る蒸機列車」の撮影に行っている。あるいはもしかしたら、吉松に駅での撮影に行っている。南九州で記憶に残っているのはそれだけで、吉松にはこの旅行中に2回行き、そのうち1回は吉松~人吉を往復しています。それは間違いなく、覚えているのですが、あとの記憶はまるで飛んでしまっています。

まず、南宮崎に行ったということにしておきましょう。朝の撮影でした。朝日の中を、蒸気機関車が引く列車が、次々にやって来る。まあ、どれもC57ばかりでしたけれど、でも幸せなことですよね、これ。橋の上で撮影をしていると、交通のお巡りさんがやってきて、道ばたに座りこんだ。いわゆる「ネズミ取り」のレーダーです。「君たち、どこから来たの?横浜かあ。いいなあ」と、それだけ話かけてもらったのを覚えています。いま、その人は80歳くらいかな。早いものですけれど。

こんな会話があったことも、今、ようやく思い出したのですが、そういう会話ひとつ、ひとつが、あの頃の私たちには粮になっていたのですね。そうやって、子供が大人になってゆく。大人も子供の面倒を、それとなく見ていたわけです。

そこで自分自身のことを振り返ると、ということになって、また頭が混沌としてしまうのですが、それはともかく。楽しいひとときでした。やがて暑くなり、南宮崎の日本食堂で、かき氷。
そう、この時代には、大きな駅にはたいがい改札のそばに日本食堂という、つまり列車食堂の一元的な経営をしている会社が、駅構内にも店を出していたのですね。当時から、このお店の味については、あまり褒められることは少なかったような気がしますが…、でも確かに便利ではありました。今日であれば、ファミレスであるとか、コンビニがこの役割を果たしているということになりますが、あの日本食堂の、平凡さも、なんだか今はとても懐かしい気がします。
(つづく)

(駅のうどんのこと)
九州旅行の、九州に着いた最初の夕食は、門司港駅の立ち食いうどんでした。なにしろ友人が、この旅行では経費を節約する。食事に駅弁などもってのほかで、食事は極力、駅のうどんで済ませると、これは出発前に宣言していたのでした。この宣言は、旅を続けてゆくごとにだんだん守られなくなってゆくのですが、ともかく、最初の夜は予定どおりうどんでした。

改修工事に入る前の門司港駅には、確かに立ち食い、と言いますか、駅のうどんがあった。さっそくそこに、気合いを入れて、入り、かけうどんを頼んだのでした。嬉しかったのはこのかけうどんに、ワケギと小さなカマボコが2切れ入っていたことで、東京の駅の立ち食いそばは、濃い出汁に麺がどかんと浸かり、薬味のネギは自分で器からつまんで入れて、という方式が多かったですから、九州ではこれが当たり前のスタイルなのでしょうが、彩りのあるうどんがご馳走に見えて、ああ、これなら「ずっとうどんで通せる」な、と思ったものです。まあ、高校生にしては食い意地が張っていますが。

数年前にも、門司港駅にはここにうどんのお店があったように記憶しています。駅舎の改修後はどうなるのだろう?きちんと同じ場所に店が構えられ、「立ち食いうどんの老舗」なんていう具合に人から呼ばれたら痛快なのですが。

素っ気ないうどんが、人を勇気づけることもある。最近は駅ナカビジネスと称し、けれどもお洒落なチェーン店ばかりが増え続けている。これは最近、東京の駅の名前を調べていて気がついたのですが、最近は、昔ながらの町名を復活させているものが少なからずあり、一時期流行った「○○ヶ丘」式のものが、増えなくなってきました。駅の供食事情もこれと同じように、そこに庶民の熱気が溢れているような、けれども値段の安い、造りは安普請の、お店が増えたら、案外これは鉄道復権に繋がるような気がします。
…でもないかな?
(つづく)

ご苦労なことに東京から足かけ2日をかけて門司に辿り着いた私たちは、急行「かいもん」に始発駅から乗るために、門司港に折り返します。門司港で立ち食いうどんの夕食を食べた記憶がありますから、当然駅前も見ているわけですが、この時は門司港の駅舎の撮影をしていません(大人になった後に、仕事で何回も出向くことにあるわけですが)。きっと、あの重厚な建物も、まだあの時代には、それほどの価値を感じなかったのかもしれません。同じような古い建物は、横浜にもたくさんありましたし。

だからこそ必要なのは定見であり、知識なのでしょうね。まだ、文化財の保存という事業が今日ほど重視されていなかった時代に、そのことを訴える人がいれば、社会はその方向を向くわけです。どれだけの動きが作れるかは運次第というところもありますけれど、まず、皆の目を向かせる必要がある。それには、何でも古いものは保存しろというようなマニア的な欲望が絡んでは駄目で、かえって蔑まれる可能性もあります。それからできることなら、保存活動に対する対投資効果までをプレゼンテーションできれば良い。もっとも、私にもそんなことはできないのですが、これからはそういう考え方を前面に押し出してゆくのも求められる資質になるような気がします。幸いなことに門司港駅舎は重要文化財に指定されて、現在はさらなる恒久的な保存のための改修工事の最中です。

ふう。暑いので先に行くぞ。

私たちは「かいもん」に乗り、西鹿児島へと向かいます。実はこの後の記憶は、もうごちゃごちゃになっていて、全然ストーリーを思い出せません。「かいもん」の窓から、八幡製鉄所の、夜も消えない明かりを、工場が後方に消え去るまで、ずっと見ていたのを覚えています。ようやく旅が本番というところではあるのですが。
(つづく)

今日が7月20日ですから、そろそろ、夏休みなんて言葉にも、違和感がなくなってきました。もっとも、私の場合でいえば、今年は夏休みがあるのか、どうか。まあ、休日も平日もない仕事ですから、特別な夏休みなど、ないのは当たり前ですが。

で、昭和48年の夏休みの旅の話のつづきです。復刻版の昭和47年の時刻表のダイヤが、私たちが旅した時と変わっていないのであれば、私たち2人が相生から乗ったのは、「ひかり55号」です。この列車の岡山着は13:00で、13:21分発の「玄海2号」博多行きに乗れる。交直流急行形電車ですね。非冷房でした。門司着19:10。いよいよ九州に到着です。日の長い九州でも、少し暮色が濃くなる時間であったかもしれません。友人とは「だれた」と話し合ったのを覚えています。暑くて疲れたということですね。「玄海」の車窓からも、博多へ向けて伸びる新幹線の橋脚が並んでいるのを、あちこちで見かけました。「嫌だなあ」というのが、その時の最初の感想でしたが、つまり、「去りゆくものを惜しむ」という、鉄道好きのいちばんよくある考え方が、そろそろすり込まれていたのでしょうね。東京を出てからここまで、写真はほとんど撮っていなかったはずです。フィルムに余裕なんかありませんから。今なら撮りまくりですよね。夜行列車の室内でも、立ち食い蕎麦でも、駅弁でも。
でも、今であれば、そもそも前日に家を出ることなどせず、「ひかり55号(東京発8:30)」に東京から乗ることを考えるでしょうから、あまり写真を撮らないというのは一緒かもしれません。
もちろん、当時だってそういう行程を組むことはできましたし、事実、この九州旅行の帰路は、夜行寝台特急と新幹線の乗り継ぎをして帰ってきています(取れた指定券が友人とは別々の席となり、彼は、自分が座った向かいの席の小さな女の子が、ずっと天地真理の歌を歌い続けていたので眠つけなかったと、列車を降りた後、グチってましたが)。最後に残った旅費を大盤振る舞いしたのですね。

それなのに、わざわざ大垣夜行など乗ったのは、やっぱりちょっとした冒険心のなせる業だったのだと思います。これも、今ほどの情報がない時代だからこそ、実現できたことなのかもしれません。(つづく)

私が大垣夜行に2回目に乗ったのは、中学時代に知り合った鉄道好きの友人と、2人で九州に旅行した時のことでした。それは昭和48年のことで、まだ九州に若干ながら、蒸気機関車が残っていた時代です。

東京から大垣夜行に乗り、大垣で西明石行きに乗り換え、それを草津で播州赤穂行きに乗り換え、相生から岡山までは山陽新幹線に乗る。すると、岡山で急行「玄海2号」に間に合い、九州に到着したら、門司港に折り返して夜行急行「かいもん」に乗るというのが往路で、このプランはその友人が考えたものですが、周遊券利用ですから急行の自由席を利用できる。1区間だけ新幹線に乗るというのを、よくもまあ思いついたものです。当時は隣の駅までであれば、新幹線の特定特急料金は400円だったと記憶していますし、グリーン車は、普通列車であれば、1枚のグリーン券で1日どこまでも行けましたから、関西圏もグリーン車で通過です。よくも、こんな乗り継ぎを思いついたものですが(急行「高千穂・桜島」という東京発の急行もあったのに)、彼にしても、家では時刻表と首っぴきだったのでしょう。

その彼に、これは九州の旅に出るずいぶん前、昭和46年頃だったと思いますが、大型時刻表のピンクの頁の最後に掲載されているクイズを、私から出題したことがあった。その問題というのはこういうものです。
「主人公のAさんは、東京に務めるOL。ある夜、明日、故郷の博多でお見合いがあることを思い出しました。慌てて家を出て、東京駅に着いたのが夜の11時過ぎ。さあ、Aさんを明日の夜6時までに、博多に到着させてください」
 これが今であれば、飛行機で一発です。何も悩むことはない。その気になればレンタカーで高速道を突っ走る手もある。あ、もちろん、新幹線もあるけれど、ともかくこの頃は、松本清張の『点と線』ではありませんが、飛行機を使うという頭がないわけです。東京から乗れる列車はもう大垣行きだけ(「銀河」は出た後です)。さあ、どうする?というもので、中学生の私も答えを見つけるのに、ずいぶん時間がかかりました。

私から問題を出された友人も、ずいぶん悩みました。大垣から西明石行きに乗って、と乗り継いでいると、博多着がリミットに設定された時間には間に合わないのです。どうする?どうする?とさんざん時刻表を前へ後ろへと悩み、しかし、乗り継げる列車がない。まさか山陰本線に行っても間に合わない。最後には「山陽新幹線に乗れないかな?」とまだ未開業の鉄道を口にして、彼もその瞬間気がついた。名古屋で大垣行きを降りて新幹線に乗り換え、京都から博多行きの特急「かもめ」に乗れば良いのです。どうしても、大垣まで行って西明石行きに乗り換えてしまうから着かない。気がつけば簡単なのですが、時刻表の乗り継ぎばかりを追い続けていると、なかなかそこに気がつかないのですね。めでたしめでたし。

しかしまあ、今、当時の時刻表を見てみると「かもめ」3Dの京都発は8:00、博多着は17:17で、京都から博多まで10時間近くかかっている。これは「よん・さん・とお」の時刻表のダイヤですが、「全国の鉄道のスピードアップが達成された」時代でも、そのスピードは、この程度のものだったわけです。
しかし、京都~博多所要10時間!今なら、ね。
(つづく)

それでまあ、コンビニ弁当でお昼ご飯を済ませ、昨日の続きを書いている池口です。

昨晩も友人と電話で話したのですが、コンビニの登場こそ、日本のこの50年の中での最大の革命だったのではないかと。マクドナルドの登場も衝撃的でしたが、コンビニが果たした役割は、マクドの比ではないと。これはもう自明の理ではありますけれど。

恥ずかしい打ち明け話をしますと、昔、「ムーンライト四国」に乗って、辿り着いた高知県の西の端のターミナル駅で、いきなりカメラのバッテリーが切れたことがあった。タカをくくっていて予備はなく、そのときはAFのフィルムカメラだったと思いますが、もうお手上げです。高知まで行って写真による記録ができず、あとは思い出に残すだけとなりました(まあ、その日のことは、何も覚えていませんから、記憶というメディアは実に当てになりませんし、何より悔しかったのでしょう)。
これが今であれば、携帯で最低限の撮影はできます。進歩した現代のスマホは印刷原稿に絶えるクオリティがありますから、十分ではないにしても、カメラのフォローをしてくれる。スマホのバッテリーや、メモリーが不足するのであれば、コンビニを見つければ何とかなるわけで、高尾山口駅近くのコンビニにメモリーカードがなかった時は唖然としましたが、まあ、何とかなった。
食料事情も同じことで、コンビニさえあれば、あとはどうにでもなりますから、つまり、詳細な計画などは不要ということになるわけですね。そりゃ、旅がつまらなくなるわけです。便利ではありますけれど。

コンビニがなかった時代の、夜行列車に乗った日の次の朝の朝食は何だったかというと、駅前にパン屋さんがあればOK(駄菓子屋さんのようなものでも可)、ホームの立ち食い蕎麦、駅弁、日本食堂、などが選択肢にあったかと思いますが、後ろの2つは非常用です。これに頼っていたら旅費がもたないわけで、同じ世代の仲間に話を聞いても、答えは同じでした。マーガリンだけ持って、現地でパンの耳を分けてもらっていた、という証言もあり、そこまでは思いつかなかったなあ、できなかったなあというのが、ちょっと残念でもあります。さりとて今更、そんなことはできないし。

でも、その昔は、商店が数軒集まっていれば、そこには食品店とも、食堂とも、駄菓子屋ともつかないようなお店が1軒はあって、そこでいなり寿司とか、大福とか、そんなものは入手できたものです。こういうお店には案外個体差があって、入ってみるまで何があるか解らない。今であれば、こんなお店を回るのも良いブログネタになりそうです。きっとあるだろうな、そういうブログ。まあこれもその昔、お昼ごはんを歌舞伎揚げだけばりばり食べて済ませた時には、少し気持ち悪くなった記憶がありますから、このあたりは、あまり細かく触れないでおきましょう。
(つづく)


さて、大垣夜行で朝の大垣に着いて、これからどっちに行こうかな?
考えてみれば、ずいぶんとたくさん、夜行列車に乗ったものです。それはもちろん、少しでもお金を倹約して、でも遠くに行きたいという欲求に対する答えであって、旅情がどうのこうのという問題ではなかったように思います。それに当時の鉄道旅行というものは、鉄道好きを自認するのであれば、そういうことをしなければいけないような、なんだかそんな雰囲気も、趣味界全体というか、友人の誰にも漂っていたような気がします。これは最近、鉄道好き(もちろん皆もうオジサン)の対談の席上で出た話題なのですが、新幹線などない時代に東京から北陸にゆくのであれば、夜行に乗って松本を経由し、さらに大糸線を経由して糸魚川に抜けるのが速くて効率的なのだと、そんな裏技を披露してくれた友人がおりました。もちろん、今はもうその手は使えないのですが、それを聞いた瞬間、一同、「やられた~」という感じで、私も、急行「能登」「越前」に乗って、あるいはうんと後日には特急「北陸」に乗って、北陸に出かけたことはありましたけれど、糸魚川を経由したことはありません。

まあ、そのような抜け道がたくさんあったのが新幹線も特急もなかった頃の鉄道旅行で、今から考えればずいぶんと悠長な道程ではありましたけれど、旅行というものはそういうものでしたし、時間がかかることはかまわないわけです。それだけ「遠くに行った」ことになるのですから。

で、話を大垣駅に戻します。
「私にとっての大垣駅は、走って登る跨線橋だった」
スポーツ選手の回顧録風であれば、そういうことになるのでしょう。格好良い言い方ですが、やっていることはみみっちい。次に乗る西明石行きで座るためですから。

まあ、そんなことはともかく、座ろうが立とうが(たいがいは座れた気がする)、予定通り次の列車に乗れて、旅はこれからが本番です。今はもう、私も「情報にすれて」しまっていて、そのような気持ちにはなかなかなれないのですが、初めて、あるいは2回目、3回目として大垣夜行に乗った頃は(何しろ40年くらい前のことですから)、現地で何を見つけても楽しかった。東京・横浜では見ることのできない車両であるとか、駅の「田舎っぽい」雰囲気というものが、たまらなく魅力的に感じました。

つまり旅に出たくて仕方なくなる気持ちというのは、あの非日常性に浸れることから湧いていたのでしょうね。「あの頃は楽しかった」と感じるのは、今は、情報伝達の方法が発達して、家から出かけなくてもいろいろなことを知れてしまえて、あの。非日常性になかなか出会えない。ただ、色々考えてみても、これを解決する方法はどうも見つからない。社会の環境が変わるのは、当たり前のことですし、必要なことなのですが、こと個人の旅について考えると、悩ましい問題が色々と出てくるようです。
(つづく)




(承前)
昨日、大垣夜行のことを書いて、今頃気がついたのですが、この列車には10回くらいは乗っているはずなのですが、毎回、朝食はどうなっていたのだろう?と、そのことが解らなくなりました。

名古屋で乗り換えた記憶はないし、すると毎回、この列車で大垣まで行っていたことになる。大垣では西明石行きに乗り換えるダッシュが恒例でしたから、食べ物を探す時間はなし。すると、その先で、食べていたのでしょうけれど、西明石行きを大阪まで乗り通せば10時。なんだか朝ご飯の時間でもありません。

この列車を使って、途中で何度が列車を乗り継ぎ、友人と2人で九州まで行ったことが2回ありました。1回目はまだ高校生の時で、この時は草津で西明石行きを降り、そこから草津発の播州赤穂行きに乗り換えることで、確実に座って京阪神をパスする。食事は草津で駅弁を買ったということを覚えています。何を買ったかまでは覚えていない。今なら絶対にスマホで1枚撮影しますから、記録は明確になるし、記憶もそうなるのですが、そうやって煎じ詰めてゆくと、旅の思い出というのは、どこまで鮮明なのが良いものなのか、ちょっと解らなくなります。

そして、この文章を書くために昭和43年10月の時刻表を見たのですが、やはりこの時代の時刻表は面白い。東京発大垣行きは夜行列車ですから、その線区の最後のページに記されるわけですが、大垣での乗り継ぎの列車は早朝発ですから、それを見つけるには、前のページに戻らなければいけない。こんなパズルが、当時の鉄道少年に楽しくないわけがありません。やっぱり、昔は良かったなあ。

そこで提案。「さん・まる・とお」とか題して、全国の列車ダイヤを、例えば昭和43年当時に戻してみるというのは、無理に決まっていますが、どんなものでしょうね?まあ、新幹線は無視しよう。急ぐ人は飛行機に乗りなさい。クルマでもいい。でも鉄道には、ブルートレインがあって、急行「高千穂」、あるいは「平安」なんてものもあって、どれに乗ります?迷いますよね。

まあ、こんなことをするには国鉄で働く人を45万人集めなければいけないのですが、もしそんな風に列車が動いたら、日本の社会はどこまで混乱するでしょうね?(つづく)